聴こえてくるのは、雨の音。

ある意味、避暑地(自分だけ)

キミの話-第三章 vol,5

新宿の地下に潜った仕事はいつでも退屈だった。階段を下りたその先は薄暗く、隣の部屋との上と下が開いていて、それらの声が漏れて聞こえないようにガンガンに派手な音楽が鳴り響き、男物のYシャツみたいな一枚を与えられ、部屋には小さなシャワールームと簡易のベッドしかなくて、待機の間は自由があるようで自由なんかない。モグラみたいな生活だった。シャワールームへの区切られた場所が透明のビニールのカーテンで、私は余程あれに縁があるのだろう、と思った。愛する人の一分も一秒も見逃せない、そういって白のシャワーカーテンをとっぱらい透明にした、便座に飛び乗って笑った亮介を思い出す。

 

ガンガンに鳴り響く音楽が喧しくて、亮介が残したMDウォークマンで私を満たす。壁にもたれかかって本を読みながら煙草を吸う。朝は早朝からホストで働く人間が来るし、昼は休みをとった私服のサラリーマン、夜はスーツで酒に酔ったサラリーマン、お前らはどんだけやりたいんだよ。暇をみつけてはうがい薬の補充をしたり、廊下にあった業務用のタンクからローションをボトルに詰め替えたりする時に、お客さんのいない時間の女の子たちが受付でたまに話しているのを見かけたけれど、その現場では一緒に働く女の子達とはそれ以外であまり顔を合わせなかった。

 

ある日、私のいた個室がノックされた。そこで働く女の子が私を見るなり、入っていいですか?と言ってきた。断る理由もないので入れてやると、数日前から早朝に私を指名してくるホストの男は自分が惚れている男だと私に告げ、指名があったら断って欲しい、と言い出した。指名があったら断るだなんて事がこちらから出来る物なのかをフロントに聞きに行くと、それは少しまずい話だ、と言い出して、更にその女の子が私が店に告げ口をした!と私を責め始め、どっちでもいいわ、と思っていたら、その子がまた私のところにやってきて、どうして自分を指名しないのだ、あれだけ貢いでいるのに、ここで働いているだいたいのお金は全部あの人に捧げているのに、と言った。気の毒に感じたが、普通の仕事をして彼に会いに行ってみてはどうか?と提案すると、普通の仕事をしていては釣り合わないし彼につぎ込むお金もないから嫌われてしまうだろう、と言った。世界は、病気だ。どうかしてる。そんな事で好きかどうか決めるような話なら初めから愛されてなどいない。

 

「こちらから断るって事が出来ないんだってさ、ごめんなさいね」

そういうとその子は大泣きをして帰りたい、と言った。私も帰りたかった。帰れる場所があるのなら。その後に散々、本番をやらせているんだろう!とかなんとか罵られたが言いたいだけ言わせた。本番をさせる方が楽だ。顎も疲れない。スマタもしないでいい。動かなくていい。乗せとけばいい。何より演技しないでよい。わー来てくれたんですねー会いたかったですー、なんていう棒読みの、しょうもない演技をしないでいい。

本番があれば、気持ちいい?と聞いてくる無駄な客の質問に甘い声を出さないで済むのだ。ぬくぬくと生きやがってよ、そんな風に思わないで済む。

どっちでもいい。どっちでも。

 

何かとよくぶち当たったのは妊娠中の奥さんを持つ男性陣で、女性側からするとこんな時に性欲があるなんて男はどうかしている、といった風に受け取れる話だけれど、あれはあれで、妻の体を考えず乗らせてくれなどと言うとそれこそ人間ではないのではないか、という罪の意識が彼らにはあり、金で解決できるなら、とした物で、それはそれでとても健全だと感じた。金で切れない縁を結ぶよりも、金で解決できる縁の方がそんな時には素晴らしい。喉が渇いたから自販機でジュースを買う、その行為とたいして変わらない。そんな時に交わりたいなんて事を口にして体に負担がかかって小さく芽生える命を落とすくらいなら、何も関係のない、死のうが生きようがどっちでもいい相手にそれを預けておいた方が賢いではないか。

 

「そんなお話を私になさるという事は奥さんに悪いと思っていらっしゃるんですか?」

『まぁ…ね。後ろめたさがない、っていうと嘘になるよね』

「そうですか?どっかで出会った女性とそうなられるよりは随分とよい気がしますが。お金で解決できるもの。人の心は、そうはいきませんよ?それだって充分、守ってらっしゃる、そういう事になると思います」

 

その内、そんな事をしないでも、話ができるだけでいい、話を聞いて欲しいから会いに来た、そんな人が増えて私は一気に登り詰めた。話を聞いて欲しいのは私の方だ。話したい言葉ももう出てこなくなってしまったけれど、助けて欲しいのはいつでも私の方だった。朝から晩まで男のモノを咥え、誰かの名前を呼びそうな感情を押さえつける。ガンガンに鳴りやまない音楽から解放されて帰路につくとまた、酒を飲む。また、薬に手を出す。迷い込んだらその先に亮介の吸う煙草のけむりがゆうるりと流れ出す。私はそれを指で遊ぶ。

 

(みゆちゃんどうしちゃったの、みゆちゃんらしくないねぇ。)

(そう?なんにも変わってないよ?亮介どうしてるの?元気なの?)

(みゆちゃん、心配だよ、俺)

(あぁ、あのね!駅のそばの不動産屋が白いフクロウ飼ってたの、知ってる?そのフクロウにも心配だよって言われたの!誰も信じてくれなかったけど、聞いたんだ)

(知らない。俺も見たかったなー。みゆちゃんあれじゃん、俺よりもあの街に詳しくなったwwこれから一杯、俺の知らないみゆちゃんも増えて、俺の知らない事が終わったり始まったりして、楽しみだねw)

(やめてよ。そんな事いうの…私ひとりみたいじゃん。独りにしないで。)

(んー、みゆちゃんー。俺、みゆちゃんには幸せになって欲しいよ?)

(じゃあ亮介、幸せにしてよ。幸せにして。)

(ちょっと待って。もうちょっと待って。遠藤さんも言ってたでしょ?もうちょっとだけ、待ってね。)

(いつまで放っとくのよ。あー!もう!!私がそっち行く。それが早くない?)

(それは絶対だめだ。俺がさせない。)

(どーしてよ。亮介いなくなってこんな寂しく感じてるのに、どーして来るな来るな来るな来るな、嫌いなの?私のこと、嫌いなんでしょ!本当は周りがいうみたいに私の事嫌いで逃げたんじゃないの?)

(バカwwわかるから。だからいっつも身につけといて。俺を持ち歩いて。でもさ、みゆちゃん、誰かとそうなる時には、俺、みてらんないから、そういう時は俺をどこかへ)

(……こんな事で生きる意味、あんの??)

(あるよ、みゆちゃん。あるんだよ。)

 

毎朝は相当な苦痛だった。眠りたくないのに眠りこけて目が覚めてしまう。望んでもないのに求められて、私はまたヘラヘラと笑い、狂おしく夜を過ごし、そしてまた、朝になる。眠らずによい方法、というのを考えた。食べないで過ごせる方法は編み出した。酒さえあれば何とでもなる。眠らずに過ごせる方法は眠る時間を失くす事だ。巷には早朝ヘルスなんて物ができたらしい。そっちも掛け持ちすれば眠らずに、亮介に会わないで、済む。亮介に会える事はこの上なく幸せだったけれど、その幸せもそうは長続きもせず、時間と現実は彼を奪っていく。

 

早朝ヘルスにも面接にいった。経験済みの仕事なので、店長にサラリと話を聞いただけで実技はいらない、と言われた。朝からそちらに入り、午前中にいつもの地下へ移動する。東京にはあれだけの人がいて、街は眠らず楽しそうに笑い声が過ぎるのに、私には何もなかった。

 

寺田さんは私を褒めた。よく働くし評判がよい、先方からも褒めて頂いている、とよく解からない先方の話までした。新しく始めた仕事のことも知っていたので地下組織というのは繋がっている物なのだろうと理解した。よくも知りたくなかった。仕方なく生きている、ただそれだけ。逆に寺田さんの方が不思議がった。色々を知りたくないのか?と。色々知ってどうすんだ?と言い返した。私の事を変わったお嬢さんだ、と言った。

 

生きるためにしている人と、死にたいからしている人間とでは大きく差が出る。死にたいからしている人間にはこれといって欲がない。墓場まで持っていきたいようなものは何もなく、出来たらあの人と同じ墓でゆっくり眠りたい。願いがあるとしたらその程度だ。ぼやけた、もやのかかるような日常。私には色がない。なんの色もない。私は何日も何日もその生活を限りなく続けた。

 

翌年には仕事の量をもっと増やした。池袋のSMクラブでも働き始めたし、鶯谷でデリヘルなんかもやった。一番多い時で常に4店舗、腰掛で2店に在籍、合計で6店舗を行ったり来たりして早く死ねる日を待った。不思議な事に手を出していた悪い薬がまったく効かなくなった。というよりも、あると調子が良かった。酒も酔わなくなってしまった。今考えると、私が大きく体を壊し、ストレスがかかるとダメになる、人間の一番大切だと言われる部分に腫瘍を作ったのはこの時だ。それらがあってまともになる。体の機能は低下し、ストレスは私自身をこの世から隠してしまった。感情の一切が揺れなくなっていた。たまに会える亮介の姿にさえ、感動しなくなっていた。どちらかというと、少しだけ、置いて行かれた事を恨むにも近いような感情は、無きにしも非ず。

 

SMクラブで働いてあのような事が出来るのならば、亮介に思う存分、させてやればよかった。本人はみゆちゃんにはそんな事が出来ないと言って泣いただろうか?無感情の生き物は感情豊かに動いていた頃にはそんな恐ろしい事出来るか、と思っていたけれど、感情が消えうせればそうでもないらしい。でも、今になって思うのは、やっぱり自分を殺せる人間は人に対してはその倍はやれるという事だ。私は自殺できなかった。他殺か事故を望んだ。日がたつにつれ、感覚はマヒし、愛がなんだったか、何故私はこのような事になったのか、何も思い出さなくなる時間が増えた。比例して手元の金も増えた。

 

迷子がいても無視したし、困ってる人がいても突き飛ばしたし、救おうと思わなかった。救えるものなんて何もなかったし、無駄に生きてないでさっさと死ね、その程度。カップルが電車にのってウトウトしていると、私にもあんな頃があって、と、うるりとした物だったけれど、その頃にはもう邪魔でしかなかった。邪魔だブスどけろ、酷い生き物だった。

 

ある日、寺田さんの紹介である方のエスコートをお願いされた。その方は私を大変に気に入って下さり、その生活から足を洗うまでの間、長期的なお付き合いがあった。その方に連れられて横浜に行った。マンションの一室のたまり場なのか事務所なのかよくわからない場所に連れて行ってもらい、そこにいる人たちとも仲良くなった頃の事だ。いらっしゃるのか、いらっしゃらないのか解らなかったけれど、横浜で買い物をしたついでにそこに立ち寄った。ご本人はご不在だったものの、そこには顔見知りになった方がいらして、ここで待つとよい、と仰った。

 

いらっしゃらないのであれば後日尋ねます、そういって後にしようとした時に、美味しいラーメンでも出前して彼女に食べさせろ、と言われた、と呼び止められた。そこにいた人たちと話をして時間を潰す事になってしまったが、ここはどこで一体何をするところで、あなた達は昼間から何をしているのだ、と尋ねる事もせずに仕方なく、そこで待っていた。やっぱり普通は色々聞くらしい。

 

度胸ありますね、とか、なんも聞かないんですね、とか、色々と言われたが、何の興味も全くないので、と笑って答えると、そうですか、それがいいです、と言われた。そうしていると玄関が騒がしくなり、ギャアギャアと騒ぎ立てる女が担がれるようにして入ってきて、右側の奥の部屋に連れていかれた。ほどなくしてラーメンが運ばれて、私はそれをズルズルとすすった。

 

右奥の部屋からは時折、この世の物ではないような断末魔が響き、断末魔が響き渡る度にゴボッと詰まったような音が聞こえ、その度に箸がとまり

「…あの…お食事にはとても不似合いなBGMで、せっかくご馳走して頂いているのに…箸が止まります」

と言うと、それもまた不思議だったらしくて笑われた。…ので何か質問するべきなのかと思って

「……えっと。何か聞いた方がいいんですよね…あの…あの人は一体…」

と言うと、彼氏の方が不義理をやって逃げてしまい、その女がとっつかまってああなっている、と教えて下さった。

「殺されてしまうのですか?」

と尋ねたら、どうなるのかは自分もしらないけれど、あんな風になるのは珍しい事だと言った。あんな風のあんな風がどんな風なのか、その現場が見えたわけではないのでよく理解ができなかったが、とにかく、食事がまずくなる。私が、そっか、いいな、と一言いったらギョッとした顔をして、何がですか?と尋ねられた。

 

いいな、死ねるの。羨ましい。

 

そう思っただけで、助けようとも何とも思わなかった。その世界にはその世界の道理のようなものがあり、その世界で生きる人たちにはそれが秩序なのだろう。どの世界で生きてもルールのような物があって、そこで尽くす事が人としての善となる。それが集団性だ。独りで生きる私には全く関係ない。ラーメン、ごちそうさまでした。