聴こえてくるのは、雨の音。

ある意味、避暑地(自分だけ)

キミの話-第四章 vol,10

今年の春、気晴らしに東京に行った。2019年の15年目、今年も不思議な年だった。春、上京した時には15年ぶりにマサトに会った。変わってしまう前の私を唯一知っている人だった。私が自分で、あれは恋だった、と呼べるのは人生の中で二回しかなくて、一人は初恋の相手、もう一人はマサトだ。長かった15年間、15年もたったのにマサトはやっぱりかっこよくて、私の中では一番かっこよかった人だろうと思う。

 

反省会みたいなものだった。あの頃は、ああで、こうで。"あの頃"を話せる相手がいるというのは心地よかった。もうこれでお互いに会わないでおこうとする反省会。どうしていなくなったのか、亡くなったと告げた彼氏は私のせいで死んでしまった事、それは自殺でも事故でもなさそうな事、あれからまっすぐ歩けなくなってしまった事、それがあってから全部理解した上で結婚してくれたのが今の主人である事、人生を子供と主人と生きていくと決めた事…。

 

マサトはそんな私に

「お前は色々と考えすぎるからな。15年たったんならそろそろ自分の事も許してやれば?」

と言った。そうかもしれない。でも私がすべき事はまだ何も始まっていないのである。不思議な年だ。だいたい彼は、もう二度と会えない人の内の一人だと思っていたのに。亮介が鬼のように怒った相手だ。でも、私はきちんと伝える事は彼に伝えられたと思う。わだかまりの残ったまんまの恋だった。ようやく、清算できた。あちらはあちらであの頃は自分もモテたし若い内に金握ってちょっといい仕事なんかしてたらそりゃもうウハウハだったからね、俺も調子のるよね、と言った。

 

それでいいんだと思う。人の人生の中で今が最高だ!そう思える時間がないと、いつまでたっても、これでいいのだろうか、これでいいのだろうか、と問いながら生きて行かねばならない。散々やりきったしもういい、と多少ハメを外す時代もないと角が落ちない。あなたがモテたのはよく存じ上げております、私に悪かったなんて思わないでね、私に振り向かなかったから私はきっとあなたを好きだったのよ。

 

35になったら結婚しようといってくれたのに、あれから10年後にプロポーズを断った。亮介が機会を与えてくれたのかもしれないな、と思った。15年という時間は長く、それは誰にとっての節目でもあったから。

 

東京にいる内にこの景色を引きこもっている長女にもみせてやりたいと思い、出てこれるなら出てくるか?と誘ってみた。一日中引きこもっている人間である。NOというだろうと踏んでいたら、新幹線に乗って一人で東京にやってきた。眠る事を知らない街は随分と楽しかったようで、あれをしたいこれをしたい、散々連れまわされ、私たちは帰路についた。明日帰るという日に長女が帰りたくねぇなぁ…と言った。あれだけ外に出なかった人間をもその寛容さで受け入れる東京とはすごい街だ。

 

このタイミングで引越したい、等と口にすると主人は反対するだろう。今まで何度かそのやり取りもあったけれどガンとして動かなかった。店も家も揃い、経営もそれなりに順調に回るようになっていて、昔の、電気が止まる、ガスが止まる、食べるものがない、水が出ない…そんな事で悩まなくて済むような生活になっていた。その足掛かりとなったのが主人の生まれた土地で開業した事にあったので、この人は私が東京に戻りたいと言っても動かないだろうと思った。でも、そこから数日、長女の表情が実に明るかった。イキイキしていた。普段暮らしていても見られなかった笑顔が見られた。それが主人を動かした。

 

『引っ越したい?』

と私に聞いた。そりゃそうでしょ。8年ずっと言い続けたけど何をいまさら。

『引っ越すのはいいけど家は俺が決めていい?』

いつもの事だ。私は条件を出した。本気にしていなかったので臆する事なくお願いはなんでも言えた。キッチンが使いやすい、お風呂とトイレは別々がよい…と次から次にリクエストをした。そんな事を言いながら、叶いはしない。この話は頓挫するだろう。だいたい、田舎暮らし、それが私を悩ませてきたのだから、するならもっと早い時期に決まっていたのだろうし、その話が今の今でなくていい。

 

私は私で実は日ごろから東京の物件を眺めてはブックマークしていた。こんなところに住めたらな…ボロボロの家に住んで、電気の紐と間違えてネズミのしっぽを引っ張る、そんな事のない生活っていいな…夢だよなぁ……そう思いながら訪れて内見なんてしない夢の住居をピックアップしていた。引越し話も確率は10%ほどの物で、鵜呑みにすると、そうやって言ったじゃない、なんでなかった事になるのよ、と喧嘩の種にしかならない。だから、実は日ごろから眺めていてここがよいのではないかと思っていました、なんて事も言わず、あなたの好きなところにどうぞ、とその物件話を預けた。

 

東京のポップアップショップを出した時、何軒か内見して帰ると言った時には

『あの話、本気だったの!?』

とこちらが声を上げたくらいだった。色々回っても、納得がいくものはあんまり、と言っていた。まぁそんなものだろう。焦って一日や二日で決めるものではないし、東京と言ったって広い。端っこの方だって東京に入る。私は適当に自分好みで見ていて、選ぶのはどれも映画館が近くにあるから、といった不埒な理由で、板橋の方やそっちばかりだった。板橋ならイオンがある。家賃もお手頃。そんな理由。

 

ある日に主人が銀行に行ってくるから店番をよろしく、と言って出て行った。いつもなら車で10分くらい走り、隣町の駅前のコンビニでお金を降ろし、ついでに私の分のコーヒーを買ってきてくれる。コーヒー、まだか、まだなのか、コーヒーは…そうして待っていたらやっと帰ってきた。

『今日まじで遅くない?もうコーヒー欲しくて欲しくて…』

と言ったら、コーヒーを買ってきていなかった。え、コーヒーは!コーヒーどこ行っちゃったの、と詰め寄ったら

『今日のは本当に銀行だ。家の契約をしてきた』

と言った。ええええええええ、結局、どこにしたの!?ほんとに?冗談だったらそんなつまらん話より、いますぐにコーヒー寄越せ。

『新住所は目白です』

目白!…で、目白ってどこだっけ?目白って何があるっけ?スマホで検索したら、学習院が出てきてしまい、あ、こりゃ用事ないわ…と言っていたら、椿山荘が出てきて

「あーあーあーあー、フォーシーズンズ!」

と言ったはいいものの2012年に提携を解消していた。時代というのは人がよそ見をしている間にも流れていくものである。

「あのラウンジがやたらと赤と金でふわっふわの絨毯で、椅子も座りづれぇ…パンツ見えるわ、座るとこ深っっ!てなったとこな」

と言うと、お前のように華やかな青春時代を送っていないので全然わからない、と冷たく言われた。初夏にそれが決まり、夏に引っ越した。

 

うちの店にいてくれるスタッフさんやお客さんのお手伝いがあって荷物を運び込めた日が亮介と私が一緒に暮らし始めた日だった。お前も度々こっちに何しに来てたのかしらないけど出向かなくてよくなったな、と主人が言った。墓参り、と答えた事はあるが、それがどこで何が祀られていて何のために通っているのかをよく理解していなかった。あの日のため、亮介のため、二人の子のため、あの日の自分のため、説明する事が憚られた。解っている事だとしてもよい気分はしないかもしれない、私だって気を遣う。

 

東京に長く住んでいても訪れた事のない土地はごまんとある。用がなければわざわざ駅を降りたりもしない。目白って何。目白ってどこ。あ、ここから池袋、歩いてすぐそば!え、ここってそんな都会なの?わ、新宿もちかいじゃーん、アクセス便利だねぇ、なんて話をしながら晩御飯がてら街を歩き回ろうという事になった。歩いて池袋の駅まで行ってみる?どれくらい距離があるのか知りたいし。そうして、明治通りにでたら見たことのあるアーチが見えてきた。

 

「!あれ!?まって…あれ?ここって雑司ヶ谷?あれ、鬼子母神道でしょ?」

『知ってんの?』

「……墓参りって私、あそこに行くんだよ」

『じゃあ毎日でも行けんじゃん』

「えー、なんか…こわぁ…なんか色々揃いすぎてない?」

『都会だもん』

いや、そういう事じゃない。そういう事じゃないけど、話しても解らない。

 

引越した日付け、実は鬼子母神の近く、朝に見た真っ白な不動産屋のフクロウまで…

池フクロウ、目白……

 

「なんにもありませんように」

決まるときには動かされるように色々が決まる。用意されていたかのような決まり方をする。成功を感じた事のある人にはわかる話。これは今じゃない、そう思っていてもストレートにとんとんと話が決まっていく事もあれば、今がベストなのにな、そう思っても一向に動かない時がある。信じられない…本当に何かあるのかもしれない…今年は本当に不思議な年で、清算と決着、そんな年なのかもしれない。すぐにもあれから15年目がやってくる。その時を東京で迎えるとは私自身も、思わなかった。

キミの話-第四章 vol,9

その年私の体がとうとう悲鳴をあげた。何も気づかなかったわけではない。おかしいおかしいと言い続けていたが具体的に何が悪いだとかどこが痛いだとかいう事が絞れないでいた。ただただおかしかった。どの病院にいっても子宮を失った事によるホルモンのバランスの問題ではないか、自律神経が、と言われた。電話で父と話した時にその話をしたら

『僕の病気って…ほんの少しの確率だけど遺伝することがあって…まさか違うとは思うけど…それやったら大きな病院いかんと見抜けんぞぉ』

と言われた。その為、その事を医師に相談、その小さな確率を逃れる事なく私は捕まった。人の機能は何もかもをホルモンでコントロールしているが、ストレスがかかると一番ダメな場所に腫瘍が見つかった。ストレスなんて感じている暇がなかった。人は生きるか死ぬか。今までのんびりと、なんて無縁でここまで来た。自分で追い詰めた部分もあるし他の要素によって追い詰められていた部分もある。なかった事にして下さい、が届くほど人生は甘くもなく、体も生まれた時に持てば充電が切れるまで。

 

通信会社のビジネスモデルはそこを具現化した物に似ている。乗り換え0円!なんてやられると、なるほどねー、人間は自分の持たないものをいつも欲しがるから食いつくよねー、そんな風に思う。血筋で既にキャリアが決まっていて、あなたのスマホはこれね、と渡されてそれが壊れるまで使う。壊れたら次はないからだいじにしてね、そう言われる事もあれば、初期不良のまま出荷される事もある。私の場合は脆弱性を訴えられていたのにそのまま発表されたモデルであろう。一番負担をかけてはいけない部分に負担をかける使い方をした。生きていきたいなら、その部分をカバーする生き方をしなければならない。無理はしないで、よく眠る事、ストレスは抱えないで、全部無理な話だ。人より早くに誤動作が出て、その内、電源の供給をしなくなる。出来れば三女が成人するまでは見届けたい。

 

機会があればいつか書きたいと思うが、田舎での暮らしは最悪だった。医療も教育も都会と比べて格差がありすぎる。人は全くある一定の段階から進化していない。小学校で朝から「目上の人を敬い…」だなんて復唱させる。田舎だからその土地を動かない年寄りが多いせい、そう言われればそうなのかもしれないが、じゃあ自分よりも年下となったらどうするんだ、大人を絶対的な存在だ等と思って欲しくない。世の中には悪い大人だって沢山いる。こうした教え方は危険である。知らない大人でも大人が言うんだから、とついていってしまう。そのくせ、知らない人にはついていかない、だなんて、あの街には知っている人間しかいないので、彼らは外に出ると苦労する。だから、外に出ないように教育されるのである。そこでしか生きられない生き方の推奨。

 

目上というのは、年齢や地位が自分より上である人の事を指す。地位に敬い、は、尊敬ではなく、ただの媚びだ。変な食い込み方の汚い方法で生き延びろ、等と教えるのが田舎の教育であった。完全なる縦社会。これだから田舎者は。全ては縦並びではない、輪になっている。一番上は一番下と繋がっているものなんだぞ。

 

こうした教育の上で育つのが田舎の人間で、それはもう覆しようがなかった。足並みも歩幅も揃っていなければいけない、みんな違ってみんないい、なんて平気な顔をして言う金子みすゞなんて、あの土地にとってみたらもはや第一級の犯罪者である。ヒトラーみたいなやつらしか揃っていない。現代のアウシュビッツ

 

人と同じでなければならない。頭角を現す者あらば弾いていじめて潰し、目立つ事があればそれもそう、昔からの大地主が強いのである。その大地主に媚を売るように躾けられて育つ。そこだけを敵に回さなかったら、自由にできる。出来ないやつは村八分、もっと出来ない時には、村十分。

 

人と同じになど出来なかったわが子の事。医療も賄われてはいないので、障害がある、と言うと人間の子ではないような言われ方をした。精神障害も身体障害も昔は忌み子として産婆が生まれた時に首を捻って始末する、そんな話を何度も聞かされた。あんまりにひどい態度でそれを伝えてくる人には

『あんたみたいな人間が初めに刈り取られるべきだったのかもね』

と言ってやったりもした。あの子達を守るのに戦いでしかなかった。キチガイだとか色んな事を言われた。長女はもう物事が完全に理解できていたので疎外される事に人間不信になり、外に出ていこうとしなくなってしまった。妹がああだとあんな事を言われる、というような事を言い出したこともあり、その時には、誰だって不完全だけど他人に言われる覚えはない、そうして蔑むあんたも不完全だ、と叱り飛ばした。どの子も可愛く、どの子がどんな状態でも良さというのは必ずあって、そこが伸ばせていければそれ以上のことなんてない。

 

ふと、亮介の実家を思い出した。あの家も、もしかするとこういう風に成り立っていたのかもしれない。あそこもまた、田舎の土地である。田舎といえば、山口県の"つけびの村"がまだまだ記憶に新しいが、"かつを"もまた、田舎文化に犠牲になった一人である。田舎でスローライフを!だなんて嘘だと思った方がいい。スローライフも何も求めておらずそこに閉じ込められる事に全く納得がいっておらず、2011年から籠って今年2019年に入るまで、その場から逃げ出すのに8年間もかかってしまった。8年はドブに捨てた、としか思っていない。出産だってなんだって、もっときちんとした場所で行っていればこんな事にはならなかった。私はよくても、娘が後遺症に悩む事や、ほかの子にとって生きづらいベースを作ってしまった事。私とするとそれらは大誤算だった。主人は小さい頃から育った場所だったので周りからは歓迎されたが、私はそれについてきた人、子供たちもそれと同じ、そんな扱いで8年が過ぎた。

 

こうした事は優遇される本人にどれだけ訴えても理解されない。あの日の私と亮介がそうだった。私は優遇されていたわけではないが

"それでもあなたを育てた親だからわかってくれるんじゃないか"

なんてまともに考えて、簡単に言った私がバカだった。話をしても通じない、そんな人間たちもいるのだ。それを知らなければ熱くなって怒り狂いもしただろうが、話の通じない人間の前で出来る事、といえば、戦わずして勝つ事だ。逃げる、これ一択。自分が身を引くが早い。私の目標はそこを出ていくだけ、になった。

 

夫婦関係はそれで冷え込んだ。仕事しかしないのであればハッキリ言って必要もないし、当初から私が欲しかったのはお金ではない。家族のために悩んでなんぼ、もっと考えて、もっと考えて、と訴える事もバカらしくなった。人の人生だ。私には関係ない。例え夫婦でも、それがその人の選んだ人生だ。私には全く関係ない。仕事だけしてその他に目を向けなかった、というのは個人の選択である。それに合わせるかどうか、が私の選択。

 

そんな時、体が絶好調に悲鳴を上げていた。出来る限り人と話をしたくなかった。体の充電池が二時間程度しかもたなくなっていた。二時間動くと切れたように動けなくなる。またそれの繰り返しで一日が過ぎる。それでも"頼むわ"の一言で仕事は降ってくるので、それをこなしたら少し休んで、を繰り返し、家でも笑わなくなったし話もしなくなった。

 

どんどん私の元気がなくなる。私を喜ばせようと色々をふっかけてくる。煩わしかったし鬱陶しかった。そんなに俺が気に食わんか、とも言われたので、うん、とだけ答えた。全ての事が煩わしかった。元気ならいいが、元気がない。体の機能のバランスが保てない。そんなところに、長女の登校拒否は親のせい、だとか、三女が目を離した隙に勝手に外に出てしまうのは親の監督不行き届きで育児放棄だ、と周りのバカどもが児相や警察に連絡、発達の障害があるので、の声も届かなかった。

 

市の実施する子供の健康診断には訪れていなかった。管轄はあの出産でいい加減な処置をした病院だったし、関係者にあうと忽ち私は火を放ちたくなる。それに毎月のように同じ県内のNICUのある三女の世話になった病院に診せていた。そこで検診も受けていた。にもかかわらず、あの家は一度も健康診断を子供に受けさせていない、やっぱり虐待が疑われると児相の人間がいやがらせのようにやってきた。何も知らないあなた方の方が職務怠慢じゃないんですかね?一年間の観察がついている、と言われた。

 

しまいに警察まで来た。

"お宅の娘さんを外に出さないでください"

なぁに?精神障害者座敷牢にでも閉じ込めておけって?

 

いまだに以前の引き継ぎで、と、引っ越しても新宿の児相が連絡してくる。そもそもあの街には発達の障害を判定できる人間もいなかったし臨床医も揃っていないのに、こちらの苦悩など、わかるわけがないのである。全員敵に回してもかまわない。主人にとっては知らない。私にとっては、岡山県の県北は最低でした。まじで。朽ちていい。そういう事は療育の現場をそろえる、とか、固定支援級をどの学校にも置く、置けないならば定期の通級を開催するなどしてから、他人の虐待を疑え。発達の障害も知らないくせによく言ったもんだ。あんたらのやってるのは、街ぐるみの虐待だ。みんな一緒が絶対だ、なんて、金子みすゞが聞いたら泣くよ。

 

正しいが正しいと叫べない世の中に私たちは生きているのだろうか。これでは、よくない、よくしよう、よくあろう、というのが生きるという事ではないのか。色々を考えていた。来る日も来る日も色々を。

 

頭がおかしくなりそうで、不感症の日々しか目の前にはなく、しんどいしんどいと言いながら、私は東京に出向く時だけはしゃんしゃんとして遊びに行った。さすがストレスのない街、ストレスのない場所。多くの友達は戻ってきた!と迎えてくれて、よくあんなとこでやってるよね、と日ごろの私からのSNS報告を受けて言った。本当だよ、よくやったんだよ、私は。誇っていいくらいよくやったと思う。私を蝕む腫瘍はその勲章だと思う事にした。

 

雑司ヶ谷で降りて亮介と私の子に手を合わせに行く。あの日が、そこにある。私たちはそれでもよく生きたよねぇ。背中合わせで座っているような気分で、あの日に、あの時に話しかける。殺してくれればよかったのに、そうした気持ちだっていつでも持ち合わせていた。自分でどうにかするのなら、連れて行ってくれてもよかったのに。私は極端に、日々の生活に疲れていた。そして大きく動きだす。動く。

キミの話-第四章 vol,8

娘は誰の予想をも裏切って、ぐんぐんと成長した。確かに私たちも同じように頑張ったがあれは本人の生きる意志だっただろう。えらいのも頑張ったのも私たちより本人である。三女はやっぱり他の姉妹のどの子よりも粘り強く負けず嫌いで、出来ないことがあると出来るまで何度もトライしようとする。生きる事は挑戦だろう。三女から教えて貰った事もたくさんある。誰かに何かを教えたり教えられたり、誰かが誰かを支えたりする事に性別も年齢も関係ない。見た目や言葉ではない事もある。想いだ。幸せを願っている、願われている、その生を歓迎されている、存在を認められている、それらが人を生かす。人に命を与える。私はその生を否定もされたし、存在が消えればいいと願われた。だからそれらの有難さが人よりもよくわかる。そう感じられる事はとても良い事かもしれない。ろくな事がなかったし、ろくでもなかったけれど。

 

あんまりに上手に成長したので学会で発表してもいいかと主治医に尋ねられ同意書に判を強請られた程だった。周りよりもずいぶん遅れての成長だったけれど、三女はそれでも力強く自分の道を歩んだ。三女が三歳になる頃、主人が自身の通った小学校の近くに空き家を見つけてきた。都会で暮らしていた頃に毎月高い家賃を払う事に嫌気がさしていたのに、田舎に越してまで家賃が必要になる事を馬鹿馬鹿しく感じていたようだった。ボロボロで安い家だったけれど、ダメ!の注意が理解できない子が暮らすのには賃貸はなかなか厳しい物がある。賑やかでよい反面、家が傷むことは覚悟せねばならない。

 

引っ越しが決まり鞍替えをし、しばらくすると家も広くなった事だし、とその夏、私の実の父が遊びに来た。三女の状態は話してあったのでさほども驚かなかったが、その大変さには目を剥いた。それはそうであろう。聞くところによると私が小さかった頃はとても大人しくて聞き分けもよい子だったらしいので、父にとっての子育てとは手のかからない物という認識に近かった。それが私の場合、身体的な問題を抱える子の介護のような子育てに付け加え、長女と次女の世話もある。主人は仕事に追われていて殆ど私の手助けはしなかった。よくやってるわ…と呆れられるような現実であった。仕方がないでしょう、誰もそんな風になりたくてなったわけでもないし、私だってこの状況を望んだわけではない。でもそれが、私の、私たちの、生きるという事だった。2016年の事である。

 

私が小学校五年生の頃に両親が離婚した。私は母方に引き取られたので、その後は私が随分大人になるまで父とは音信不通だった。父がわかっていた事は自分との離婚後に母が連れ戻った男がやくざ者で、娘はグレて、どこの馬の骨かわからない男の子を若くでシングルで生み、その子を置いて家を出て二度と家に戻れない、そんなところだった。実際には違う。母はやくざ者と一緒になったはいいが、もう子供を持つ事が体の事情で許されなかった。日本の制度で未成年者の親権はその親にあるので、その未成年者が出産した子の親権もその親にある、とされるのだ。あの人達は自分たちの間の子を欲しがった。私はその犠牲になった。乳がいらなくなる頃には私は用済みだった。だから家に戻れなかった、というのが本当のところだ。

 

実際ならば、あなた達がもっとしっかりした大人であれば私はあんな目に合わずに済んだしその後もそれが原因で愛する人を奪われずに済んだのに、そう言って責めるべきだったのかもしれないが、私の人生はいつだって私自身の人生だ。誰かに生んでもらった事だけで充分だった。だから自分の人生は自分の一存で、生かしも出来れば殺しも出来る、と思っていたのだ。私は父を責めなかった。責めたところで現実は変わらないし、もし責める事があるとするならばその後の事を黙認していた母にだろう。父には、今後も本当の事を話すことはない。話さない。余計な心配をかけるだけだし、二人は子供にはわからない何かがあって離婚を決意したのだろう。今更、自分たちの選んだ事が実は人の人生を歪めただなんて思わせない方が誰にとってもきっといい。

 

「そうよねぇ~まったく子供なんか可愛がりそうにない私がこんな母親業を好きこのんでやってるんだもんねぇ、信じられない!ってのもわかる気がする」

と適当にかわして、笑った。同じことをしなければいいだけだ。子供に対し、自分が受けた傷と同じ傷を背負わせない、他人にもそうである。横浜のあの人が言った、無駄に生きるな無駄に死ぬな、だ。生きると決めたのであれば、生きるうちに何を学ぶかで自分の人生は決まる。

 

新しい家の中には小さな神棚を作っていた。神棚、といっても、そこに一般的な神がいるわけではなく、私の元にいる亮介を忘れないようにするための心ばかりの場所だった。そこに水とたばこを置いていた。自分に負けそうになるとそこで話をする。これと言って素晴らしいような事は何もなかったけれど、例えば、今日はいい天気だったよー、とか、ちょっと疲れちゃったな、とか、そんなような事だ。日々、忙しさにかまけてしまい、日に日に存在を忘れていってそれでもいざとなって助けて貰う…そんな失礼な話もないのでいつもいつも気にかけた。

 

父がいたその日がなんと亮介の命日であった。父にウルルンを録画してもらったVHSのテープ、どうした?と尋ねたら何のことかわからなかったらしく、そりゃそうだよね、はるか昔の事だもの、と思った。そんな事あったっけ?としつこく聞いてくる父は、私に昼ご飯をご馳走してやるんだと私の家の台所で雪平鍋を握っていた。昼はうどんにする、と言いながら。

 

「12年前の今日、世界ウルルン滞在記のゲストが山口もえだったのよ」

と言うと、あぁ!と思い出したらしく、それから、彼の事残念だったね、と言った。そうね、と返した。まだあの時には生きていたのだ。あの後、亡くなった旨、報告はしたけれど私は長い間、父に連絡をしなかった。出来なかった。あんなにクズのような生活を送っていたのだもの。

 

父の作ったうどんができて、二人でずるずるとすすっていると父が温かいものを食べると鼻がとまらなくなる体質で、鼻を噛んでから私に一言

『誠実そうな子やったのにな』

と言った。知らないじゃん会った事もないのに、と私が笑うと言った。

『ぅん。会った事はないけどな。電話でそれが伝わってきた』

箸を落とした。思わず父の胸ぐらを掴んで何言ってんだ?今なんつったよ?と問いただす勢いで

「なんの話?誰と間違えてんの?」

と言ったら

『亮介君やろ?あんたの亮介君』

と言った。

 

「待って。待て。冗談だったら許さねぇ。何の話だ?」

ほぼ、やくざだった。もう私は、その時ほぼ、やくざだった。

『あんたが帰ってきて事故にあったらしいってバタバタしとったやろ?それでもうほとんど話もせずに行ってくる!って飛び出していったから話す機会がなかっただけ。あの日の数日前に僕は彼から電話貰ってたん』

「はい?」

亮介が私の実の父に連絡をしていた。どうして連絡先がわかったのだろう。どうしてだ。どうしてだろう。うどんはどんどん伸びた。途中で、食べんのやったら僕貰うわね、と父は横から箸を伸ばした。

 

あ……冷蔵庫だ。あの部屋の冷蔵庫。もし何かあったらここに、と私が貼っていた紙がある。私に何かがあった時は私の実の父に、と言って、電話番号を書いたメモを貼っていた。私があの日、亮介と暮らした部屋から持ち帰った荷物の中にはその紙は見当たらなかった。遠藤さんが荷物の仕分けをしてくれてはいたけれど、そんな大切なものをあの人が貼りっぱなしにするわけがない。という事は、なかった、という事になる。

 

「いつだった?思い出せない?それいつの事?」

『うん、だから、あんたが戻ってきて出ていくって出て行った数日前。会った事はないけど声は知ってるし、だから僕はあんたが、彼氏が事故をしたって言った時に早く連絡がつけばいいと思ってここは電波が悪いからって外に出したん』

あああ。あああああ。あああ。なるほど。ああああ。

 

「亮介、なんて言ったの?」

『うん、自分はいま大学生だけれども実はお嬢さんと一緒になろうと考えていて、一緒になりたいからもう学校を辞めて働こうと思ってるって話をしてて、それで僕はせっかく入った学校なんだったら最後までいけば?っていう事と、僕の娘だからあんたには悪いけど…あんたってあんたやで?僕にはあの子がどれだけ誰かにとっていい子なのかはわからんけども…そりゃそうやろ?どんだけいい女だって力説されても、そうですよねぇいい女ですよねぇ、なんて気持ち悪い事言わんやろ?wだから、君が学校辞めるほどの価値があるのかどうかはよく考えた方がいいよって言ったん。そしたら、あんたにもおんなじような事を言われ続けたけど自分の気持ちは変わらんって話をして、そっからはまあ、なんで僕がそれを聞かなきゃならんのよっていうような…のろけ?どんだけあんたが自分にとって優しいかとか、どんだけ可愛いとか、東京で、自分の傍でいつも楽しそうにやってるし、元気で仕事も頑張ってるみたいだから心配しないであげて、みたいな事…って、泣いとんのか…泣くな、いくら娘でも女の涙には僕、弱い…』

 

うどんを残してごめんなさい…でも涙が止まらない…なんでこんな事になったのかもよくわからない…あの子たちもいるし、あの人もいるから今の生活がどうって話じゃないんだけど…涙が止まらない…ごめんなさい…うどん…残した…あげる…ごめんなさい…延びてるけど許して…とザンザンザンザン涙を流して泣いた。

 

12年ぶりに亮介の生の声を聴いた気がした。私でさえ、亮介が生きていたなんて事は幻で、私だけの妄想だったのではないか、と思うような長い時間、彼は私の知らない時間に、知らない場所に、自分の気持ちを置いていてくれたのだ。存在しているものが物理的に存在しなくなる事で人の記憶からは薄れていく。自分だけがそれを覚えている事が怖かった。幻でも、夢でも、見ていたんじゃないか、と。

 

『彼の事は…残念だったけど…でもあの子たちがいるのも、今のあんたがいるのも今の旦那さんのおかげやし、それは忘れたらあかんで。彼の事は残念だったけど…』

と言った。わかっている、と頷いた。あの人が生きていたらどういう人生だっただろう、とたまに考える事がある。でもいつもそれを考えると、全く想像がつかないでいる。一緒にならなかったからいつまでも美しいのかもしれないけれど、喧嘩をしながらでも、喧嘩別れしたとしても、この世で生きていて欲しかったと思える相手であるのは確かで、私は多分、きっと、本当に、惜しい人を亡くしたのだと思う。

 

離れた間にそんな事をしていたのにびっくりしたけれど、そんな風にわざわざ電話して話したという事はいよいよ二人で逃げるつもりだったのかもしれない、と感じた。いよいよ二人で逃げなければいけない何かがそこに迫っていたのかもしれない。そんな人が自殺はない。自殺はない、と本人が言い切ったようなものだ。

 

うどんを食べ終わった父はからりとした顔をして

『じゃあお父さんも彼のために手を合わせるわ。そうかぁ。今日はその日で、僕はあんたにその時の事を今になって話しているんだから、何かしら彼がそうさせてるって部分もあるのかもしれんねぇ…あんたは愛されたんやね、ありがとうを言わんとな』

と言った。

キミの話-第四章 vol,7

後から聞いた話だったが、私が出産で手こずっていた間、産んできますと言ったきり私が現れなくなってしまったSNSには、可愛い赤ちゃんはまだかまだか、と友達が押し寄せていた。更新したくてもあのような状況で更新できなかった事、それから何日も眠らずに腑抜けたように椅子に座っていた主人に、私の目も覚めた事だしここに居られてもきっと何も変わらないので家に戻って少し眠ったら気晴らしに仕事でもしておけば?と促した。私と三女の事が心配だっただろうが義母達の元で過ごす長女と次女の事も心配だったので父親が傍についていてやった方がよい、と思っての事だった。

 

私の口から言うまでは黙っておいた方がよいと思ったのであろう、主人はいつものように仕事の話を自分のSNSにあげた。ここで溜めていた心配を爆発させたのが私の友人たちだった。どうなっているんだ、無事なのか、赤ちゃんはどうしているのですか?それらがどっと押し寄せたらしい。私のいなかった間の事。主人としては言い出しづらかっただろう。娘は何日も動かずで、私は私で子宮を失ってしまったような話だ。まさか男の自分が解ったように

「ちょっとした事故があって女房の子宮がなくなりました」

等というわけにもいかず、主人の寝不足も祟りに祟っていて何をすればよいのか解らなかった時の事だ、私の方にも表に反映されないように"心配している"と言った内容の便りが沢山届いていた。SNSは名前が表示される。暇を見つけては長い時間をかけて返信返信の日々であった。当時はブログもやっていて、ブログとなると匿名でもコメントを残せるのだが、その中に一通、タレコミにも近い物があった。

 

『あの家は今、息子の保険金を使っての事でしょう、介護サービス事業を営み始めています。狂っていると思いませんか。』

そう書いてあった。それどころではなかった、というのが事実なので、何の話だ、コメントを残す先が間違っているぞ!と思いながら数日を過ごし、でもどこかひっかかる内容で…あ…と思った。

 

もしかして亮介の?

そう考えて圭吾に尋ねてみた。答えはYesだった。誰だかわからないけれど、そうしてお伝えしてくれるという事は何か恨みがある方だったのかもしれない。しかしそれは私の思いとは関係のない物だ。種類が違う恨みを矢のように束ねても良い成果はもたらさない。自分は自分で戦ってほしい。もし私の事を考えての事であれば、それは大変ありがとうございます。

 

介護サービス事業という言葉がその時、とても厭らしく響いた。普通の方がそれを営んでいる、と仰ったら、何か思い入れがあっての事と受け取っただろう。しかしこの場合、金の匂いしかしない気がした。失った命に申し訳ないから命に対して尽くしていくというような、された事も言われた事も、そんな風にも聞こえた試しがなかったし、あの人達の事だ。極力周りからは真面目に見えて…を装って、請求金額を水増ししても解らない相手をビジネスの先に選び…だとか、助成金補助金目当てで…とかそんな風にしか聞こえなかったし、感じなかった。

 

良家だったのではないのか。良家なのに今更、新経営?金持ちの道楽?あぁ、あれか。完全に亮介が将来的に稼ぎ頭になる算段で息子に投資、でも死なれてしまったので自分達の面倒を見てくれる先もなく仕方なしに立ち上げた事業なんだな…。仕方なく、なら、助成金補助金が多い方がいい。そうすれば先行き困らない。利用者には介護保険も降りている人の方が多いであろうし回収率は高いだろう。日が暮れていくように迎える死を今度は食い物にするんだな。

 

「うちは助成金とか補助金とか何か考えてる?」

と主人に聞いてみた。うちの資本金は五万、正確には三万くらいからのスタートだったので今更頼ろうだなんて思わないし、補助金助成金を借りたりすると返すのに大変になった時に困るから、と言った。世の中には返さないでもいい補助金助成金も存在するらしく何かしら提示された条件がクリアできればそれは返済を迫られないそうだ。例えば、介護事業とか…?うちに立ち寄ってくれる商工会議所の人間が教えてくれた。

 

ふーん。そうなんだぁ。へぇ~。感想としては、それだけ。どっちになってもあの性格なので金に汚いには違いない。見栄ばかりの人たちだ。自分の息子の気持ちも理解できないのに他人の気持ちなんてもっと理解できないであろう。私の気持ちも理解できなかったのがよい証拠。人を馬鹿にするような、蔑んだような事しか投げられなかった奴には経営なんて向かない。お金を産んで流すのは、回すのは、いつでも人だ。紙切れに足が生えていて向こうから勝手に歩み寄ってくるわけではない。その"人間"を大切になんてしていなかったのに、そんな奴には何をさせてもダメだろう。せいぜい頑張って下さいね。良家なら困らないでしょう?ハッキリ言って、何をするにも無計画。あの話にだって、どこかにきっと穴がある。

 

遠藤さんと遠い昔、二人で話しながらたどり着いたのは

"完全犯罪なんて隠そうと思えば思うほど、ボロが出ると思わないか?"

という答えだった。完全犯罪が成立するのはきっと、運や時も味方している時で、そんな風にうまくいくとは思っていなかった、というのが完全犯罪であって、人の犯した罪の全てが計画通り、計算通りに隠せるのなら私達も絶対早くにやってるよねwいなくなればいいと思った上司なんて幾らでもこの世にいるぞ?なんていうろくでもない話で、でもまさしくその通りのような気もする。何かを隠さねばならぬ時、隠そうとする方にばかり意識が向いて、あれだよね、びんぼっちゃまの着てたスーツみたいな事になるよね、と二人で笑った。びんぼっちゃまのスーツは前だけが隠れていて、後ろ身頃はまったくなし、立派な前身頃は前側に紐でくくられていて、後ろからみれば丸裸だ。

「多分まだあんたの知らない事や聞いていない事の方が多いはずだ」

と遠藤さんは言い続けた。私もそう思う。人の死で謎が残るなんて、そんな事だいたいからしてあってはいけない事なのだ。オカルトの業界で、成仏する、というのが本当に正しいのだとしたら、亮介は成仏なんかしていなかったし、でもそれは、同じ場所をぐるぐると回るような自殺した人に言われる(同じシーンを繰り返しますよ!)のアレでもなく、自殺ではなくて事故でもない、とすると一体なんなんだ、となる。ねぇ、亮介、一体なんなんだろうね。いつも力になってくれるのに、私は全く役立たず風情を振りまいているけれど、私は絶対にあなたを独りにはさせない。例え誰もがあなたの事を遠い過去として忘れてしまっても、私はあなたに助けられて今日がある、だから絶対に、そんな事はさせない。

 

多くの犯罪被害者の御遺族が言う。

"誰がどれだけ罪を償ってくれたとしても、あの子やあの人が帰って来るわけではない"

本当にそうだ。時間は巻き戻らない。いなくなった日々の中で、過ぎていく時間の中で、薄れていく記憶の中で"仕方のなかった事"等とは思えない。いつまでたっても、その時、その場で自分も共に殺されてしまい、その先を歩いていかなければならない人間の時間までをも止めてしまう。多くの御遺族がきっと同じような思いでお過ごしだろう。好きだとか嫌いだとか恋だとか愛だとか可愛いだとか愛しいだとか、そんな物を横にどけても、表現しがたい苦い思いしかそこにはない。気分は一生晴れないだろう。何故、その人でなければならなかったのか。正直、それは無駄です、そう思うような命が沢山ある。簡単に死にたいと口にする人間もそうだ。死にたいと本人が望むんだから、そちらを先に刈り取ってくれればいい。その時、神や仏は山に籠って粥でもすすってたのかよ、暇か、働け。

 

朝も夜もなく娘の世話をしていた。小さいおててにはミトンを被せておかないと、鼻から出たミルクボトルを接続するジョイント部が気持ち悪くて、指に引っ掛けて引っこ抜いてしまう。全部がズルンと抜け出せば問題はないがチューブが途中で止まってしまった場合、それはとても危険なので、寝ていても寝ている気がしなかった。目を覚ましては見に行き、万が一抜けてしまうと深夜こちらが授乳時間まで目を覚ませずに寝ていても、聴診器をあてがいながら手探りで挿管する必要が出てくる。気が気じゃなかった。眠くて朦朧としながら自分の服を引っ張り上げ添い寝しながら乳を吸わせる、寒い台所にたって眠い目を擦りながらミルクボトルを水で冷まして…あの日々でも根を上げそうだった事が嘘のように、それは神経をすり減らす作業だった。ベッドで眠るのをやめて、椅子に座ったままで長い夜を過ごすようになった。たまの転寝。朝も夜もない転寝を積み重ね、なんとか一日2時間は睡眠をとれるように。

 

寝不足が続いていた寒い冬の日、いい加減に干してしまったのか洗濯物が何かの拍子でストーブの上に落ちた。じわじわと温まってそれは発火した。驚いてそれを床に落として座布団を上から被せた。火は回らなかった。ある程度の熱が加わると発火するらしい。が、空気をなくすときちんと消える。灯油だった場合は?調べたら引火点は40度だった。不良燃料がそこに流れ出たとして本人にもかかった場合、その場には40度の外気がないと火は燃え広がらない。たった一点に火種が落ちたとしても納屋の地面は土だったはずだ。コンクリートのように平坦ならばわからないが凹凸のあるその地面では灯油を全部吸った場所もあっただろうし、溜まった場所もあっただろう。そもそも、納屋の前で投げた煙草の吸殻がなぜ納屋の中に入るんだ。その納屋には扉がなかったのか??どちらにせよ、再現しようと思うと色々難しそうに感じる。段取りを踏むまでの事もなく、そんな事は不可能ではないかと感じざるを得ない。

 

自殺だと言われるのであれば、被ったのは灯油ではないだろうし、事故と言われてもその通りに書いてあった"流れ出た物"も灯油ではない気がする。やけに真っ黒だった。煤けたのだと言われればそれまでの気もするが、全焼した建物も今までにみた事がある。現場はあんなに表にまで火が回るというのも考え難い状況に黒くなっていた。

 

自殺だったとして。事故だったとして。自殺だったとして被ったとしたら灯油?事故だったとして流れ出たのは灯油?納屋の前で?どちらでもない気がする。納屋の中で誰かにガソリンをかけられて火を放たれた、だから助けを求めて家に突っ込んだ。それが妥当ではないのだろうか。

 

弟と混乱の最中、話した事がある。"自分がばあちゃんちの風呂に入っていた時に前にある納屋から叫び声がして"。親の証言としては"ここで話をしていたら外の空気を吸ってくると言って外に出て行ってそうなった" "私達は驚いて風呂場に連れて行きシャワーで水をかけたりして助けようとしたのにあんな…"

 

ここで話をした、と言ったのは、そのばあちゃんちの仏間の隣のテレビのある部屋である。もしそれが正しいのだとしたら彼はわざわざ遠い本家の方に走った事になる。その時、風呂場は塞がっていたからだ。彼らが火を消したところなど誰もみていない。ああ、手伝った中にはもう一人おられたか。に、しても、それがすぐの事だったのかどうかは誰にも解らない。畳に足跡がついていたのに、何故それを現場検証の前に処分したのかも納得がいかない。もし、助けを求め、水を求めたのだとしたら、ああ今そこには誰かが入っているので無理だ、向こうへ行こう、なんて考える暇があるのだろうか?私だったら判断力を失うと思う。

 

私の考えとしては、亮介が言っていた通り、本家に自分の部屋なんてなかったのだとしたら(実際、生前に寝泊まりしていた部屋は敷地内の祖母の家の二階だった)何かがあった時に走るのはきっと祖母の家だっただろう。何より、その足で畳を踏んでいるのだ。何故、いざとなってわざわざ本家に走る必要が?今から死にます、を見せつけたかったのだとしたら、火を取りに行くのは本家だっただろう。

 

何故本家に走ったのかと言われたら、話をしていた場所はきっと本家だったからではないのだろうか?と思う。第三者の存在がもしあったとしたら。第三者は仏間に潜んでいただとか?それとも第三者がいたとして一緒に話をしていたのだとしたら、それを弟に会わせたくなかったので弟は祖母の家へ?

 

しかし弟の方もどうかしている。自分だけはだいじにされていて、兄がそれをどう思っていたのかも気づかずに帰ってきたからといって自分はどちらででも風呂に入れるのだもの。自由っぷりを見せつけて、亮介の気持ちを考えた事があるの?と言ってやりたい。あんたはあんたでいずれにせよ、あの人たちの子にふさわしいよね。人の気持ちを解らないんだから。

 

再調査を希望したい。再調査を。おかしな事ばかりだ。正しい事が正しいとまかり通らず、こういう事だから、仕方ない事なんだよ、殺したのは君だからね、原因は君だからね?いい加減にして欲しい。いい加減にしろ。

キミの話-第四章 vol,6

病院から病院までの距離は高速道路を使用して約2時間。その時には"疑いあり"、実際には確定。私の血液は外にもどんどん流れ出たし、腹膜にも流れ込んだ。状況としては、もし自力で出せないようなら腹を掻っ捌いてでも、その覚悟があったのでそれでも子が腹から引きずり出されてしまうと一仕事終えた事にホッとした。他の子は大丈夫だろうか。もうこれ以上授かる気もなかったので最後の出産になるだろうと踏んで、家族全員立ち会いの上での出来事だった。

 

次女はまだ物事をそんなにも解っていなかったはずだ。長女は同年代の子と比べても知能が高かったのであの子には大打撃を与えてしまっただろう。大事な人がどうにかなってしまうかもしれない、それだけで人は不安という名の波に連れ去られてしまう。溺れさせてやらないで。不安があったらしっかり聞いてやって。何が怖かったか、何があなたをそんなにも追いつめるのか、よくよく聞いてやって。救急車の中で祈ったのは、そんな事だった。主人は先にあちらについているだろう。私から生まれ出た命が全て助かればそれでいい。それ以外は特に必要はなかった。

 

誰かが死んでも朝は普通にやってきたし、コンビニも開いたし道路工事もしていたあの日、私が置いて行かれた朝がそうだった。気分も風景も感情も白けた朝だった。私がいなくなったって、私の代わりは幾らでもいる。よい母親が来ればそれでいい。悪い母親だったとしたら、私の元に亮介がたびたびやって来るように私も度々そこへ現れて蹴りのひとつかましてやればいい。救急車の天井が白む。不規則に二回、大きく心臓が鼓動して意識が途切れた。

 

どうやら私は私の命を手放したようだった。現実の私に何が起きていたのかは私には解らなかったがその間は永遠を思うような長い時間に感じた。初めはあの部屋にいた。庭にチューリップが咲いていたので季節は初夏だった。ナツメさんが塀の向こうからやってきた。左側の視界に煙草の煙があって、少し視線を落とすとぺたり床に座っている隣の亮介の指先が見えた。西日が差し込んで気持ちいいのとは少しほど遠く、眩しいねー、と話しかけるくらいの夕暮れだった。何を差しての事なのかはハッキリ解らないけれど、亮介は

『どうだった?』

と聞いた。

「どうってー。生きるのって大変だったよー。なんせ独りだもんねw」

『みゆちゃん、独りじゃないよ?みゆちゃんはもう独りじゃない。俺みたいにいてもいなくても同じだって人間とは違うよ』

「やめてよ、そんな言い方。私にとっては一緒に生きるつもりだったんだからw」

笑うしかなかった。

『みゆちゃんは生きてなきゃだめだ』

「なんで?もう色々、疲れたよ…?生きてたって中身がなかったらおんなじだよ」

『みゆちゃんはもうお母さんになったんだから。代わりはいないよ。必要な人だよ』

「お母さん…」

『そだよ。お母さん。新しく来た子にもお母さんが必要だよ。面倒見のいいみゆちゃんならきっと、ねぇw』

ねぇ、と言って笑った。煙草の吸殻が庭にポォンと放られた。話している間に主人の実家の台所のある土間が見えていて、そこに光が差し込んでいた。食器棚のガラスに陽が反射した。足元が冷えるような朝。主人の祖母がそこで紅白の餅を丸めていた。ほやほやとして、水のついたおばあちゃんの手で握られてつるんと顔を出す餅が、透き通るような色をして湯気を立てて

「新しい子がくるんじゃあ。でぇれぇ可愛いかろうなぁ」

と含み笑いで声にした。

 

そうだ、私、帰らないと。新しい病院についたら娘をお願いしますって頭を下げないと。

 

病院の入り口に救急車が滑り込んで、ギリギリで戻った私のあげた第一声が

「娘をお願いします」

だった。お母さんバイタル戻りましたー!生きてますー!の声から廊下を走るストレッチャーの上で医師の声を聞いた。

 

「お母さんもうちょっと頑張って!あとちょっと頑張って!必要な事は旦那さんに言うから!残せたら残す、でも無理ならお母さんの命の方が大事だからね、戻ったら子宮ないかもしれない、それでも頑張ろう!"生きて"」

 

"生きて"ここの声が亮介の声と重なった。暗い病室で目が覚めたら明け方で、もう私の体に子宮は残っていなかったし代わりにお腹から管が外に出ていて、トマトジュースみたいな誰かの血液が腕から注ぎ込まれていた。もう一度、目を閉じた。瞼の向こう、亮介の実家の、勝手口の前にあった携帯からこっそり抜いたSDカードに見た、初夏のチューリップが満開で風に揺れていた。

 

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誰かが死んだら、いなくなったら、あんなにも脆く、傍にいた人間の歩む道は途絶えるのに私はどうなってもいいや、なんて思った。居なくなられる側の辛さを自分が一番よく知っている癖に、全部を手放そうとした。大切な人間の死に方が、どうだろうと助かったのは、助けて貰ったという意味も含んでいて、助けて頂いた命、それこそを全うすべきだった事に随分と長い時間がかかってしまった。人が独りで生きているわけではない事の意味にはきっと、こうした生かされているような何かもあって、それは直接に産んだ産まれたの母子間だけの話ではなく、色々が加勢し、それ以前から流れてきた血もあり、現在(いま)を生きる人たちにも支えられ、私達はそうして生きているのだ、という事を身をもって知った。

 

もし、大切な人が遠くへ行ってしまって死にたいと思うような事がある人には是非聞いて頂きたい。それは誰かが犠牲になってでも、あなたを助けてくれたから、そこに残った命です。それだけでもあなたには生きる意味と価値がある。あなたには自分の中にその命や存在を生かす使命がある。追いかけたところで、会えるわけではない。私にはあの時、亮介の雰囲気とごく一部しか見えなかった。本人が直接に存在するのだとすれば、それはあなたの中です。相手を生かしてやりたい、やりたかったと真に願うのならば、あなたが死んではいけない。私はその事を身をもって知りました。いつか自然にお迎えが来た時にありがとうね、と皆にも、支えてくれた者や物に告げ、笑って去れる、そういう人生を歩んでいきたい。それが私が亮介から教わった事です。

 

よい人生という物がどういう物を言うのかはわからない。解らないけれど、人を陥れるような、バカにするような生き方を送ると葬儀には誰も参列してくれないであろう、という事も知りました。亮介の時には沢山の友達が来てくれた。あれは、あんな毎日の中でも彼が誠実に生きたから。一目でいいから顔を見たい、誰かにそう言われるような人生を送れたらきっとそれがよい人生であり、その人の最終的な評価になるのだろうと思います。

"やっと死んでくれた"

そのように言われるような人生を送ってはならない。誰も。

 

よく眠った翌朝、酸素マスクの下から

「死ぬかと……思ったよね…いたたたた…」

と目覚めた。主人は極力平気そうにしていたけれど、後で看護師さんに聞いたら

"娘さんも奥さんもいっぺんに、だったから、旦那さん…もう本当に魂抜かれたような顔をして全く休まれている様子もなかったので、奥さんの意識が戻られて本当によかったです"

と仰った。出産時のプッシングとその後の蘇生措置があったので肋骨は全損していて、食いしばりすぎた為に奥歯も全損、出血多量で子宮は破裂、散々だったけれど人間はそうも簡単に死なず、私は今日も生きている。

 

暫くは立ち上がれず車椅子で、今後もしばらくは車椅子生活を余儀なくされるかもしれないとも言われたけれど五階のNICUで眠る娘がもしかしたら早くに退院するかも、そう思ってリハビリを重ねた。くじけている暇はない。とにかく、私はお母さんなのだ。みゆちゃんはお母さんになったと亮介が言った。だから私はあの日に亮介に必要とされたように、今度は傍にある新しい命を支えなければいけない。必要な存在として。

 

娘に会わせて欲しいと主人に言うと、今はまだやめておいた方がいい、と何度か断られた。気持ちが沈むと体に障る、そう言われてそんなに酷いのか、と不安になった。それでもいいから会いたいと5階まで車椅子を押して貰ったら、娘は保育器の中で真っ黒だった。脳が腫れないように冷凍されているのだという。

「生きてる…んだよね…?」

目が離せなかった。娘の担当医が顔を出され、お母さんが動けるようになったなら、と、脳のMRIを撮りたいのだがあの小さな体に麻酔を使うとなると二度と目覚めない可能性もある、そのためご夫婦でよく話し合われて同意書にサインを、と仰った。

 

こんなにつらい事があるだろうか。どうして10年近くも経って、同じような思いをしなければならないのだ。私の一存で、私の存在が、何かの命を奪うかもしれない。この世に神だか仏だかが本当にいるのなら私の一生をかけてでも呪い殺してやろうと思ったし、それこそいるのなら捕まえて横浜のあの人に差し出し、こいつは私を傷つけたので殺っちゃってもいいです、と簀巻きにして東京湾に放るでも、コールタールに混ぜ込むでもいい、絶対に許さない、そう思うほど、恨んだし呪った。奴らはろくな事をしない。

 

病室の食事用のデスクの上にリップクリームを立てた。本気の神頼みだった。私の神は亮介だ。大丈夫なら倒して、と祈り続けた。倒れなかったらサインはしない。しばらく変化がなかった。もうサインはしない、そう思って車椅子でジュースを買いに行った。戻ったらリップクリームごと消えていた。私のリップクリームを知らないかと看護師さんに尋ねたらさっき掃除の人が来てたからゴミと間違えられたのかも、と言った。倒すだけでは飽き足らず、亮介はそれごと隠したのだ、そんな気がしたので、この子はきっとよくなるだろう、に賭けた。賭けてサインをした。

 

麻酔でだめになる事もなく検査は無事に済んだ。吉報だった。脳幹に傷があるとの話を受け、それがどんな物でどんな事かは見当もつかなかったのでキョトンとしていたら、奥の窓ガラスに近い方を指さされた。そちらを見るともう体の捻じれてしまったお嬢さんが酸素をつけていて、あの子は13歳ですがあの子も脳幹に傷のある子です、と言われた。一度も歩けた事もなさそうだったし、お食事も管から頂いていた。体が捻じれてくると内臓を圧迫するので肋骨が肺などを貫く事もあるらしく、家よりも病院の方が安心だという事だった。20歳まで生きられたらまずまずでしょうね、と医師が言った。

 

その日の夕方辺りから、私は何をやっているんだろう、としきりに思うようになった。私は何をやっていて何のためにここにいるんだろう。生きなければいけない、でも中身が全くない気がした。色があるのに色がない、そんな事は初めてだった。これまでは物理的に色を失くしていたし、でもまたそれとは違ったなにか。一度戻った感情がまた離れていくようなそんな感覚だった。あんまりに顔色が悪かったのか、それともそうした場合は普通なのか、明日は精神科の予約を入れてあるのでそちらへ、と看護師に告げられた。抗う事もなく、はいとだけ答えた。

 

翌日の精神科の医師は私が、今までに色々とあったのでこんな感じになった事があるけれど昨日からの私は何か今までとは違う感覚だった、と告げると、絶対に言わないから今までの事を聞きたいと言った。あーでこうでこれがあーで、話していくと離人症だね、と言われた。ずっとそうだったのかもしれない、と言うと、そうだったのかもね、と言われた。そうだろうがどうだろうが生きていかなければいけない。死ぬわけにはいかないのだ。私が弱音を吐くわけにはいかない、でもちょっと、疲れてしまって。

安定剤が出た。飲まなかった。

 

娘はMRIを受けてから、それでもゆっくりと成長していた。嚥下の障害があり、二歳になったら胃婁しましょう、と言われていたので鼻から胃まで直接に管を挿管しミルクを胃に届ける。それは私の仕事になる。聴診器を持って、音を確認しつつ、ゆっくりと差していく。ちょっとでも手元が狂って肺に入れてしまうと肺が溺れて肺水腫を起こす。亮介の最期が頭にちらつく。気持ち悪いらしく嫌がると激しく泣くし、手で払おうとするのでバスタオルでぐるぐる巻きにして処置をする。この頃、私は離人症で良かったと思う。少し大きくなってくると、嫌がるわが子を縛り付けてでもそれをする事になった。こうなってくると、虐待しているのか、助けたいのかなんなのか、よく解からなくなってくる。自分が死のうと思っている時、人を傷つけるなんて自分の事ではないし自分には大して痛みもないので全く平気だった。今はそんな事は出来ないと怯える。自殺行為というのはやっぱりそんな物だ。自分を傷つけられる人間は、他人にはもっと非道でえぐい。周りが同じだけ苦しむという事も理解していない。そんな事を簡単に選ぶくらいなら逃げ出してしまえばいいのだ。誰も傷つけたくないのなら、一番に自分を傷つけるべきではない。そう思う。

 

娘は何日も何日も保育器で朝を迎え、ようやく家に戻れる事になり、お姉ちゃん二人のする事を自分もしてみたいと望むようになり、私は私で頃合いを見図って、物の味を覚えれば自然と口から欲するようになるのではないか、と何でも舐めさせて好奇心と興味と本能を誘いだし、20歳まで生きられるかどうか、歩くなんてとんでもない、そう言われていた子を食べさせたし、歩かせたし、走らせたし、泳がせるところまで育てた。半ば意地、長期戦で殆ど眠らず皆が寝静まってからは勉強をして、生かしてやる事に奮闘した。亮介が欲しかった愛の味を、私はわが子に教える。

キミの話-第四章 vol,5

私たちの浜松生活はそう長くは続かなかった。いつも太陽は高く、洗濯物はカラカラに乾いて海辺の傍はとてもお気に入りだったけれど、あの年はその場所が問題となった。その頃私が頻繁に動かしていたのはmixiで、友達だけの括りを入れていたので限定公開だったけれど、確か翌年の3月8日辺りの朝の事である。それなりに周りから話題にされたので覚えている。

 

朝の支度をするのに一階へ行って脱衣所前の鏡を見ながら身支度をしている時の事だった。妙に後ろが気になる。脱衣所のすぐ後ろは浴室になっていて振り返れば浴室と壁についた鏡があるだけだ。鏡合わせになってしまうのが悪いのだろうか。あまり宜しくないとも聞くし…と思って浴室の中折れ戸を閉めた。扉の表面が真っ黒だった。水分で黴が繁殖…そのようなレベルではなく、真っ黒だった。穴のような黒。

 

真っ黒だ!また色が見えなくなったのだろうか!と思って焦った。その頃ちょうど自分で色々と作っていた頃なので、ここで色が見えなくなってくれると非常に困る。掌をみた。きちんと色があった。安心していると後ろがとても騒がしくなった。大勢が走っていくような風を感じて、気持ちがとてもザワザワした。

 

ザワザワしたけど気のせいだ。きっと以前の薬の後遺症だ。脳がやられたに違いない。そうして髪の毛を梳いたらその櫛通りが誰かの手触りで、耳元で

「みゆちゃん…」

と言われた。驚いて櫛を落とす。あんまりに驚いてその時の事を日記に書いた。

 

"後ろに黒い穴が開いていて大勢の人が走りぬけた感じがあり、騒がしくて、胸がザワザワした。その後亮介にも会った。何もなければいいけど" 2011年の事である。

 

3日後、いつもは砂浜に遊びに行くのに、その日に限って長女は気持ち悪いと訴え、地球が回ってる~と言うが早いか呟いて、キッチンに差し掛かる手前の床に吐瀉物をぶちまけた。地球は回っているものだし、逆に回転を止めると問題あるだろうが!そう思いながら、次に具合が悪くなったらこれにね、と洗面器にレジ袋をかぶせた物を手渡す。そうこうしていると昼が遅くなってしまい、昼はサンドイッチにして浜辺に出かけようと思っていたのにな…とひとり台所でチキンラーメンを茹でた。地震が来た。

 

"ねぇさん!めちゃ怖い!" "次もなんかあったら忘れずに書いて"

そう周りに言われたが、何となくが解ってもどうしろだとか、何があるよだとか、そういう詳細は解らないし、自身の持つ運だとしたら運がありすぎるし、勘だとしたら鋭すぎる。だから何かとそうして教えてくれたのはいつも亮介だっただろうと思う。あの頃を知っている友達は皆、あなたは亮介君がいる限り死なないと言ってくれたし、主人は主人で私が敏感に何かを感じ取ると私の助言を欲しがり、必ずそのように動いた。

 

でもこうした事は他人には、バカらしい、そんなもんは気のせいだと思って頂ける方が有難い。そうしてくれた方が二人の時間を踏み荒らされないで済む気がする。誰が何を言ったって変わらない、二人にしかわからない時間が、私達の間にはある。ただ私達二人は亮介の生前、抽象的な会話を好んだからか、何かを伝えるにもあまり言葉がいらなかった。それは本当に温度のあるやりとりで、亮介以外にもたまにそういう人がいる。言葉がいらない相手、という者が。

 

きっと何か別の方法でやりとりが出来るのではないのだろうかとも思う。人間の脳なんて使われていない部分の方が多い。"なんとなく解る・感じる" 虫の知らせなんかもそれの一種だろうと思う。

 

毎晩飛び回る海上ヘリの音に怯え、その一件で娘は大きく平常心を失くし、国民全員の安定も先も見えない時に、自営業などは特に大打撃をうけるだろうと読んで浜松を後にする事となった。日本列島が、国民が、恐怖に慄きこの先どうなっていくのだろうと心配になっている最中に、現場付近や関東圏をウロウロする気にもなれず、離れるとなると主人の実家方面しか思い浮かばず、最終的に主人の実家へ戻る事になってしまった。次女が産まれてもうすぐ1年になろうとする時の事だった。その二年後、次女が産まれてからまたも三年後、主人の実家に移ってから三女を授かる事となる。

 

三女を授かった時に出産予定日を聞いたら亮介の誕生日だった。ここでもまた、恐ろしさが先に立った。その日に生まれたら早くにも死んでしまうかもしれない、どうしようどうしよう、悩みに悩んだ。私はもうその頃37歳になっていたので、自然分娩も難しいのかもしれない。上の二人を自然分娩で産んだものの、それだってなかなかの無理をしての事だ。それまでを遡ればわかるけれど、もう子供は出来ないと言われていた。亮介の子がお腹に宿ってから何かが正常化されたのか、自然に授かれるようになったけれど、授かるのと産みだすのは別だ。その不安をずっと訴えていたけれど病院は問題ないと一切取り合ってくれず、ただ、妊娠糖尿の気もあるので計画分娩に入ろうと言っただけだった。亮介の誕生日とはずらせる事が可能となった。

 

病院の医師はバカみたいに朗らかでこちらの心配を全く受け付けず、本当に大丈夫なのだろうかと度々心配になり、主人に、やっぱり上の子たちを産んだ病院に預けたい、あの先生なら私の体の状況をよく知ってくれているので、と訴えたけれど、金もないし戻る事は出来ない、相手は医師だから心配しすぎの考えすぎだと言ってとりあってくれなかった。あの頃は不安で、亮介のつけていたブレスレットを自分の左手に留らせて、ずっと撫でていた気がする。予定していた分娩日の前日におかしな事があった。

 

全ての荷物をまとめて家を後にしようとしていた時に、商売をしていてこうした言い方をするとおかしな話なのだが、まだ全く名も売れていない頃の事、滅多にお客さんが来られる事はなかったのにその日に限ってカップルのお客さんが入ってこられた。こちらは病院の入り時間が決まっていたけれどそのために動けず、引き留めるようなその状況に、これはやっぱりやめておいた方がいいかもしれない…と思った。今でもよく覚えているけれど、カップルの、その男性客の腕には亮介の物と同じブランドのブレスレットがついていた。その二人は革のバングルを眺め、買おうかなー、でももうブレス持ってるしなー、でも欲しいねー、どうする?と言い合い、散々粘って結局買わずに出て行かれた。

 

遅れてしまった旨を病院に電話して、向こうの都合上、今日はもう入れそうにないとなったら断ろう、と思っていた。案の定、約束した時間を回ってしまっていたので、今日はもう来られないと思って夜の分の院内食の予約を取り消してしまったと言われたので、やっぱりやめます、と言おうとしていた時に後ろが少し騒がしくなって

 

"別の方が退院されるそうで、一食分余るそうですが、どうですか?"

 

と言われた。この時の事があってから、最終的な判断をギリギリで迫られたら答えはNOとしようと決めている。どれだけ欲しい席でも、どうやら空きが出たようです、と言われたら、それは悪魔の誘いだ。後日にします、ごめんなさい、そう答えるようになった。何事も欲張ってはいけない、という事なのかもしれない。

 

入院してトイレに行ったら、二つ並んだトイレの、選んだ側の便座が驚く程糞まみれで嫌な気分になり、隣に入ると今度は血まみれ。看護師を呼んでトイレが使えないと文句を言った。嫌な予感しかなかった。

 

次の日、嫌な予感は大的中し、そこにいた看護師が、子宮口が全開大で頭がそこに見えているのに膜が邪魔しているから破ってしまえば出てくるだろう、ともう一人の看護師と話していた。先生に確認をとった方がいいんじゃないか、と言い終えるまでに指で膜を弾いたらお腹の中で三女が一気に回転、足が下になってしまい胎盤が先に出てしまった。殺してやる!わが子になんかあったら殺してやるからな!そう思っていた。遅れて入ってきたバカみたいに朗らかだった医師はやっぱりただのバカだったらしく、壁に張り付いて何もできず

 

"自分は自然分娩専門だから"とその状況の中、震えあがって見ているだけだった。お前みたいなやつは、産婦人科医、やめちまえ。実際、この件があってからそうも待たずにそこは産婦人科を閉めてしまったが…。

 

私は、二人も殺すわけにいかないのである。お前らには解らない。お前らには。

 

頭の上で大丈夫だ頑張れという主人。主治医が何かを言おうとすると主人は一言、うるせぇお前は黙っとけ!出番なしである。邪魔でしかなかった。本気で邪魔だった。へその緒の代わりにあんたの首にたまたま紐でもひっかかればいいのに!そんな感じだ。

 

もう自分で腹を掻っ捌こうと思った。メス探して、メス。何か刃物を!殺すわけにはいかない。殺せないのだ。これ以上殺せない、頼む助かって、お願い助けて。全く関係ない先生が通りかかり、もう肘まで入れて探って出すと言い出して、やってくれ、頼むから助けてやってくれ、とお願いし、娘は重度の低酸素性虚血性脳症を背負いこの世に生まれて来た。皆がもうこの子はダメだ、と思っていた頃に、息をした。

 

息してます!救命医療班呼んで搬送します!

 

病院から病院に運ばれるってなんやねん!…だったが、とにかく主人に三女をお願いし、主人はあとについて別病院へ走った。ここにはお子さんがいないのでお母さんは三日たったら退院できます、大変でしたね、と分娩の記録を作成して頂いている時、変な汗が止まらなくなり目の縁はどんどん白んで、体が震え始めた。何かおかしい、何かが、おかしい。

 

耳の奥で亮介の声がしていた。

(みゆちゃん、深呼吸。深呼吸して。深呼吸)

呼吸が浅くなる。分娩は終わったのに、ラマーズ法をまださせられているかのようだった。

(みゆちゃん、大丈夫だから。息をして。ゆっくり)

その声があったから何とかなっていたようなものである。

 

病院の医院長がただ事ではない様子をききつけて入ってきた。コソコソと話す声が聞こえていた。

「お母さんの方、様子おかしくないか…?」

「何かあったらまた…検査回そう」

また…と言った。

 

医者ならばMRIやCTに回した時点で解っていたであろう事を責任逃れの為の

"~~の疑いあり"と記入して

「おかあさんねー、赤ちゃんもこっちにいないしお母さんも向こうの病院いこうかー」

と言われた。まるで、一緒の方が心配も少ないでしょ?と言わんばかりの言い方で。

 

"子宮破裂の疑いあり"

私の子宮は縦に20センチ近く、ザバッと破れていた。

キミの話-第四章 vol,4

次女が無事に産まれた。仕切り直しの新しい人生、どうなるかは解らなかったけれど関東を離れる事にした。私のメッセンジャー時代が過ぎてしまってからは、それさえあまり起ち上げる事をしなくなった。ログインしない亮介のアカウントを眺める事が辛かった。ログを読むのも胸が痛かった。起ち上げるといるのにな。名前はグレーになったままだった。もう永遠に動かない。

 

2006年にはまだ招待制だったmixiは、2009年には登録制に移り変わり、あれよあれよと時代も過ぎていく中での事、メッセンジャー時代の友達がそちらに集うのにそうも時間はかからずで、いつもネットの向こうには仲間がいた。実際に会える関東在住の友達は少なくなるにしても、それがある事であまり寂しさという物は感じなかった。

 

次女妊娠中から主人とよく話し合っていたのは、独立するのに同じ場所でやっても二番煎じと呼ばれてしまうだろう事や、子どもを外で自由に遊ばせたかった事、ある程度都会であってある程度田舎、二人目が産まれたらお互いに行った事もない場所で一からスタートしようという話だった。それに、主人は一番に、私が送った一年間の事を気にしていた。このままここに置いておくのは私の為にも宜しくない、そんなような事を言った。

 

言っていたが…まさか本当に家まで見つけて私の知らぬ間に契約していたとは思わなかった。4月の11日に次女を産んだばかりだった。27日の夜にはもう、新しい住居となる浜松へ、家族で移動する為の車に乗っていた。まだまだ悪露があったので深夜に立ち寄ったサービスエリアで下着を上げ下ろしする手も姿勢も、体がそこら中痛くてバラバラになってしまいそうで、引越そうとは言ったけど何もこんなに急がなくても…そう思いながらトイレついでに珈琲を買った。深夜のサービスエリアでニュースが流れていた。

 

「今日のニュース、次のニュースです。時効制度の廃止案が昨日27日、賛成多数で可決、成立しました」

 

熱々の珈琲を持ったまま、そのニュースに耳を傾けた。このタイミング。このタイミングで。あっけにとられていてテーブルに置くのを忘れた。

「あっっっっつ!」

紙コップに触れていた薬指をやけどした。

 

私に色々があった街と出来事を捨てた日。私達のあの日々も悔しさもこれまでか、そう思っていたところ、頭上でそのニュースが鳴り響く。違う、これから始まるのだ、そう思った。亮介はいつでも、私を楽しませてくれる男だった。いやいや、みゆちゃん、これからよ?そんな風に言いそうだ。彼はいつでもカッコいい。

 

妊娠中にはやめていた煙草が急に吸いたくなって煙草を買いに売店に行ったら、好みの煙草は売り切れていたので、おめでとうといつもありがとうの感謝を込めて、亮介がいつものアメスピがない時に買う煙草を買い、夜の中、深く吸い込み、ゆっくり吐いた。

 

あまりにバタバタとしたせいか、そこから数か月は気管支をやって外にも出かけられない程に悪化してしまったが、新しい生活は楽しかった。家のそばには海もあったし、庭続きとさほど変わらぬ海岸で子供たちとよく時間を過ごした。一人の時間は一人の時間で砂浜を散歩したり、仲の良い友達もご近所に出来て、太陽はいつでも高く上りゆったりとのんびりと時間が過ぎて、相変わらずお金はなかったもののそれでも、暮らしている人たちの性格も朗らかでとても良かったし、今でも機会があればまた住みたいと思える街だった。

 

関東からも、その街からも離れてしまってから一度立ち寄った時には、あの頃のように防波堤はもう低くなく、頭上高く聳え立つ物に姿を変えてしまっていたが、それでもやっばり久しぶりに訪れた時にはとてもいい街だった事には変わりがなかった。

 

私達夫婦は色々あったけれど、それでも普通の夫婦でよく喧嘩もした。喧嘩をするたびに、亮介を思い出して泣いた。戻りたい、戻りたい、なんでいなくなったの…よくそうして泣いた。いつまでも彼の存在が薄れないでいる事を、よくも知らない人間は、今の旦那に失礼だ、そんな風に言う声もあった。それも理解して結婚を決めたのは主人だったし、私達にどんな日があったのか、誰にも言えずに疑念を抱える日々がどんな物だったか、どんな風に傷つけられてどれ程まっすぐ歩けなくなったか、何がきっかけで結婚する事になったか、よく読むがいい。ふざけんな。簡単に言うな。どれだけの事があったと思っているのだ。くだらねぇ事でチャチャ入れてる暇があるんならお前らそれ程に愛してくれる人間でも見つけて来いよバカ、その程度にしか思っていなかったが、言いたい人は好き勝手に言った。

 

結局自殺して死なれたくせに、そう言ったバカには本当によく読んで頂きたい。お前のだいじな人間が亡くなった時には言ってやる。いつまで引きずってんの?やばくね?ってな。

 

やっと今その話が出来ている。何も知らない奴がちょっとかじった程度で知ったように言うべきではない。前向きにありますように、誰かの為に寄り添ったり祈ったりする事をしらねぇのか、と思う。しかし私にはそんな連中が、私以外にもその風情で近寄って嫌われていたって全く関係ないし、そんなんだから人に嫌われるんじゃねぇの?としか言わないけどね。

 

 

砂浜が近いのでイライラしたらよく走り込みに行った。走り込んだら息があがって何も考えなくてもよくなる。イライラしたら走る、浜松時代からそうだ。ある日、砂浜を走っていた時の事。砂浜で何かを燃やしている若い子たちがいた。浜松はブラジル人が多く、ブラジル人学校もあるくらいだ。彼らはとても頭がいい。頭がいいので悪い事をするにもなかなか高度な事をする。それを嫌う人もいたりした。若いといったらやっぱり悪い事をしたがるものだ。本当は浜で焚火なんかしてはいけない。危ないではないか。中の一人が何かをビャーーーーっとかけるとその火がボワッと燃え上がった。体に火がついたりしたらどうするの……怖い怖い。近寄らない方がいい。

 

次の日散歩に出た時、その場所にさしかかった。ある一部分が黒焦げになっていて、かからなかったところは普通に燃えた、そんな感じの焼け跡だった。木や石が黒く焦げていた。zippoオイルか何かをかけたのかな?と思った。近くにマスタードのボトルのような口の尖った容器が落ちていた。これか…。キャップをあけて中の匂いを嗅いでみた。オレンジ色したガソリンだった。

 

ガソリン……。灯油は透明だ。ガソリンには色がついている。zippoオイルだとしたら体中に浴びる、足跡がつく程に浴びる、そうするとなかなかの量がいりそうだ。ガソリンならば携行缶があれば用意できる。傍にスタンドがあっただろうか?それとも農協。どちらにしてもあのような物を徒歩で買いにいけるわけがない。亮介は運転免許をもっていない。運転の出来る人間が買ってきて置いていた、もしくは農機具用の燃料として…。

 

それこそだ。それこそ、そもそも灯油?灯油だったの?灯油なんかが漏れ出たからといって、そんな物に火がつくの?そんな事を言ったら、冬、ヒーターの灯油をタンクに入れる時、手元とは逆に給油窓があったりして満タンに気づかずに溢れさせて手が汚れる、さっさと乾いてしまうので手も洗わずに煙草に火をつけて、指が鼻先に近づいて初めて"あ、手ぇ洗ってないや…"そう気づくこともある。あんな事になるのなら、この時点で私にも火がついていないとおかしくないのか?

 

灯油が燃えて、あんなに全焼してしまうなら、納屋の中に漏れ出た灯油に先に火がついていないとおかしいのではないか。亮介は火だるまの状態で助けを求めたのかなんなのか、その状態で家に突っ込んでいる。という事は火の出どころは本人になる。まさか一気に爆発したのだとしたら、その前で煙草を吸っていたのだ。吹っ飛んでしまって助けを求める暇もなく気を失っているだろう。

 

火種が先に逃げている。灯油だった場合、納屋も全焼するようなそんな事があり得るのだろうか?ガソリンならば、火が這って納屋へ移動し本人が離れてもメラメラと燃えるだろう。本人の火をみんなで消している間にも納屋が全焼、あり得なくない。

 

自殺だったとしたら、自分で火をつけておいてから誰かに"助けてくれ"はないだろう。思った以上に熱かった、そんな陳腐な発想でその行為に及ぶようなバカではない。頭はピカイチきれる人だ。それに。亮介は、自分で自分を切れない、だからペットを飼っている、といった男だ。自分で自分を傷つける事が出来ないから、仕方がなくても生きていた男だ。そんな人が誰かと一緒に逃げようとしているのに、自殺はしない。

 

この時点で、自殺の線はゼロになった。灯油か、ガソリンか。

 

あり得るとすれば、誰かが亮介にガソリンをかけた。それから仏間に火を取りに行った。それから彼に火をつけた。だいたい、おかしな話だ。彼が納屋の前で親に隠れて煙草を吸っていたのが火の出どころであれば、その時、手元に火があったはずだ。仏間へわざわざ取りに行く必要がないのである。石器時代の人間でもあるまいし、ライター程度は持っていたはずだ。亮介以外の誰かが亮介に火を放ったのであれば、その人は、煙草を吸わない人間だろう。煙草なんて吸って、という側の人間だ。

 

煙草を吸う人間というのは、手元に煙草がなくてもどのタイミングでも空き時間があれば購入して吸えるようにポケットやバッグにはいつでもライターだけは持っている。コンビニ前から電話してきた亮介が隠れて煙草を吸えたのは、ライターをポケットに持っていたからだ。ライターまで毎回買うような事をしたら、それこそライターばかりが増えて、煙草を吸っていた事がバレる。あのヘビースモーカーがライターを持たないなんて事自体考えられないし、彼はいつも胸のポケットかズボンのポケットにライターを入れていた。いつも一緒だったから、煙草を切らして買いに行っては、その場で、あぁ、いますぐ吸いたいのに火がないわ、財布しか…と言うと、んー、と言いながら出してくれた。

 

あの子の全部を知っているなんて思わないで頂戴!糞ババアが最後の最後に私の頬を張ってそういったけれど、残念な事に私は、亮介の何から何までもを知っている。ずっとそばにいたのが、この私だから。