聴こえてくるのは、雨の音。

ある意味、避暑地(自分だけ)

キミの話-第四章 vol,9

その年私の体がとうとう悲鳴をあげた。何も気づかなかったわけではない。おかしいおかしいと言い続けていたが具体的に何が悪いだとかどこが痛いだとかいう事が絞れないでいた。ただただおかしかった。どの病院にいっても子宮を失った事によるホルモンのバランスの問題ではないか、自律神経が、と言われた。電話で父と話した時にその話をしたら

『僕の病気って…ほんの少しの確率だけど遺伝することがあって…まさか違うとは思うけど…それやったら大きな病院いかんと見抜けんぞぉ』

と言われた。その為、その事を医師に相談、その小さな確率を逃れる事なく私は捕まった。人の機能は何もかもをホルモンでコントロールしているが、ストレスがかかると一番ダメな場所に腫瘍が見つかった。ストレスなんて感じている暇がなかった。人は生きるか死ぬか。今までのんびりと、なんて無縁でここまで来た。自分で追い詰めた部分もあるし他の要素によって追い詰められていた部分もある。なかった事にして下さい、が届くほど人生は甘くもなく、体も生まれた時に持てば充電が切れるまで。

 

通信会社のビジネスモデルはそこを具現化した物に似ている。乗り換え0円!なんてやられると、なるほどねー、人間は自分の持たないものをいつも欲しがるから食いつくよねー、そんな風に思う。血筋で既にキャリアが決まっていて、あなたのスマホはこれね、と渡されてそれが壊れるまで使う。壊れたら次はないからだいじにしてね、そう言われる事もあれば、初期不良のまま出荷される事もある。私の場合は脆弱性を訴えられていたのにそのまま発表されたモデルであろう。一番負担をかけてはいけない部分に負担をかける使い方をした。生きていきたいなら、その部分をカバーする生き方をしなければならない。無理はしないで、よく眠る事、ストレスは抱えないで、全部無理な話だ。人より早くに誤動作が出て、その内、電源の供給をしなくなる。出来れば三女が成人するまでは見届けたい。

 

機会があればいつか書きたいと思うが、田舎での暮らしは最悪だった。医療も教育も都会と比べて格差がありすぎる。人は全くある一定の段階から進化していない。小学校で朝から「目上の人を敬い…」だなんて復唱させる。田舎だからその土地を動かない年寄りが多いせい、そう言われればそうなのかもしれないが、じゃあ自分よりも年下となったらどうするんだ、大人を絶対的な存在だ等と思って欲しくない。世の中には悪い大人だって沢山いる。こうした教え方は危険である。知らない大人でも大人が言うんだから、とついていってしまう。そのくせ、知らない人にはついていかない、だなんて、あの街には知っている人間しかいないので、彼らは外に出ると苦労する。だから、外に出ないように教育されるのである。そこでしか生きられない生き方の推奨。

 

目上というのは、年齢や地位が自分より上である人の事を指す。地位に敬い、は、尊敬ではなく、ただの媚びだ。変な食い込み方の汚い方法で生き延びろ、等と教えるのが田舎の教育であった。完全なる縦社会。これだから田舎者は。全ては縦並びではない、輪になっている。一番上は一番下と繋がっているものなんだぞ。

 

こうした教育の上で育つのが田舎の人間で、それはもう覆しようがなかった。足並みも歩幅も揃っていなければいけない、みんな違ってみんないい、なんて平気な顔をして言う金子みすゞなんて、あの土地にとってみたらもはや第一級の犯罪者である。ヒトラーみたいなやつらしか揃っていない。現代のアウシュビッツ

 

人と同じでなければならない。頭角を現す者あらば弾いていじめて潰し、目立つ事があればそれもそう、昔からの大地主が強いのである。その大地主に媚を売るように躾けられて育つ。そこだけを敵に回さなかったら、自由にできる。出来ないやつは村八分、もっと出来ない時には、村十分。

 

人と同じになど出来なかったわが子の事。医療も賄われてはいないので、障害がある、と言うと人間の子ではないような言われ方をした。精神障害も身体障害も昔は忌み子として産婆が生まれた時に首を捻って始末する、そんな話を何度も聞かされた。あんまりにひどい態度でそれを伝えてくる人には

『あんたみたいな人間が初めに刈り取られるべきだったのかもね』

と言ってやったりもした。あの子達を守るのに戦いでしかなかった。キチガイだとか色んな事を言われた。長女はもう物事が完全に理解できていたので疎外される事に人間不信になり、外に出ていこうとしなくなってしまった。妹がああだとあんな事を言われる、というような事を言い出したこともあり、その時には、誰だって不完全だけど他人に言われる覚えはない、そうして蔑むあんたも不完全だ、と叱り飛ばした。どの子も可愛く、どの子がどんな状態でも良さというのは必ずあって、そこが伸ばせていければそれ以上のことなんてない。

 

ふと、亮介の実家を思い出した。あの家も、もしかするとこういう風に成り立っていたのかもしれない。あそこもまた、田舎の土地である。田舎といえば、山口県の"つけびの村"がまだまだ記憶に新しいが、"かつを"もまた、田舎文化に犠牲になった一人である。田舎でスローライフを!だなんて嘘だと思った方がいい。スローライフも何も求めておらずそこに閉じ込められる事に全く納得がいっておらず、2011年から籠って今年2019年に入るまで、その場から逃げ出すのに8年間もかかってしまった。8年はドブに捨てた、としか思っていない。出産だってなんだって、もっときちんとした場所で行っていればこんな事にはならなかった。私はよくても、娘が後遺症に悩む事や、ほかの子にとって生きづらいベースを作ってしまった事。私とするとそれらは大誤算だった。主人は小さい頃から育った場所だったので周りからは歓迎されたが、私はそれについてきた人、子供たちもそれと同じ、そんな扱いで8年が過ぎた。

 

こうした事は優遇される本人にどれだけ訴えても理解されない。あの日の私と亮介がそうだった。私は優遇されていたわけではないが

"それでもあなたを育てた親だからわかってくれるんじゃないか"

なんてまともに考えて、簡単に言った私がバカだった。話をしても通じない、そんな人間たちもいるのだ。それを知らなければ熱くなって怒り狂いもしただろうが、話の通じない人間の前で出来る事、といえば、戦わずして勝つ事だ。逃げる、これ一択。自分が身を引くが早い。私の目標はそこを出ていくだけ、になった。

 

夫婦関係はそれで冷え込んだ。仕事しかしないのであればハッキリ言って必要もないし、当初から私が欲しかったのはお金ではない。家族のために悩んでなんぼ、もっと考えて、もっと考えて、と訴える事もバカらしくなった。人の人生だ。私には関係ない。例え夫婦でも、それがその人の選んだ人生だ。私には全く関係ない。仕事だけしてその他に目を向けなかった、というのは個人の選択である。それに合わせるかどうか、が私の選択。

 

そんな時、体が絶好調に悲鳴を上げていた。出来る限り人と話をしたくなかった。体の充電池が二時間程度しかもたなくなっていた。二時間動くと切れたように動けなくなる。またそれの繰り返しで一日が過ぎる。それでも"頼むわ"の一言で仕事は降ってくるので、それをこなしたら少し休んで、を繰り返し、家でも笑わなくなったし話もしなくなった。

 

どんどん私の元気がなくなる。私を喜ばせようと色々をふっかけてくる。煩わしかったし鬱陶しかった。そんなに俺が気に食わんか、とも言われたので、うん、とだけ答えた。全ての事が煩わしかった。元気ならいいが、元気がない。体の機能のバランスが保てない。そんなところに、長女の登校拒否は親のせい、だとか、三女が目を離した隙に勝手に外に出てしまうのは親の監督不行き届きで育児放棄だ、と周りのバカどもが児相や警察に連絡、発達の障害があるので、の声も届かなかった。

 

市の実施する子供の健康診断には訪れていなかった。管轄はあの出産でいい加減な処置をした病院だったし、関係者にあうと忽ち私は火を放ちたくなる。それに毎月のように同じ県内のNICUのある三女の世話になった病院に診せていた。そこで検診も受けていた。にもかかわらず、あの家は一度も健康診断を子供に受けさせていない、やっぱり虐待が疑われると児相の人間がいやがらせのようにやってきた。何も知らないあなた方の方が職務怠慢じゃないんですかね?一年間の観察がついている、と言われた。

 

しまいに警察まで来た。

"お宅の娘さんを外に出さないでください"

なぁに?精神障害者座敷牢にでも閉じ込めておけって?

 

いまだに以前の引き継ぎで、と、引っ越しても新宿の児相が連絡してくる。そもそもあの街には発達の障害を判定できる人間もいなかったし臨床医も揃っていないのに、こちらの苦悩など、わかるわけがないのである。全員敵に回してもかまわない。主人にとっては知らない。私にとっては、岡山県の県北は最低でした。まじで。朽ちていい。そういう事は療育の現場をそろえる、とか、固定支援級をどの学校にも置く、置けないならば定期の通級を開催するなどしてから、他人の虐待を疑え。発達の障害も知らないくせによく言ったもんだ。あんたらのやってるのは、街ぐるみの虐待だ。みんな一緒が絶対だ、なんて、金子みすゞが聞いたら泣くよ。

 

正しいが正しいと叫べない世の中に私たちは生きているのだろうか。これでは、よくない、よくしよう、よくあろう、というのが生きるという事ではないのか。色々を考えていた。来る日も来る日も色々を。

 

頭がおかしくなりそうで、不感症の日々しか目の前にはなく、しんどいしんどいと言いながら、私は東京に出向く時だけはしゃんしゃんとして遊びに行った。さすがストレスのない街、ストレスのない場所。多くの友達は戻ってきた!と迎えてくれて、よくあんなとこでやってるよね、と日ごろの私からのSNS報告を受けて言った。本当だよ、よくやったんだよ、私は。誇っていいくらいよくやったと思う。私を蝕む腫瘍はその勲章だと思う事にした。

 

雑司ヶ谷で降りて亮介と私の子に手を合わせに行く。あの日が、そこにある。私たちはそれでもよく生きたよねぇ。背中合わせで座っているような気分で、あの日に、あの時に話しかける。殺してくれればよかったのに、そうした気持ちだっていつでも持ち合わせていた。自分でどうにかするのなら、連れて行ってくれてもよかったのに。私は極端に、日々の生活に疲れていた。そして大きく動きだす。動く。