聴こえてくるのは、雨の音。

ある意味、避暑地(自分だけ)

キミの話-第二章 vol,19

一連の事は終わったものの、いつ戻ればよいのかも解らないしこれからどうしていけばよい物か、と、亮介のいない亮介が育った場所で考えていた。あの頃はしっかり眠った、という記憶がない。暗闇の中でもずっと目が開いていて、全ての感覚がおかしかった。急に寒くなったり、暑く感じたりして、目を閉じられないし、目を閉じたら昨日までが全部なかった事になりそうでただ目を閉じる、そんな事が怖くて出来なかった。豆電球のぼんやりとした灯りだけを見つめて昼間に膝に抱いた亮介の重さを思い出していたりしていたら知らぬ間に朝が来て…そんな数日だった。

 

まだ家には三谷君や圭吾がいて、翌朝、私のいた部屋に亮介の両親が話があると言って入ってきた。もう言い返す元気も、間違いを正す正気も残っていなかった。ただ、そこに私が在る、そんな精神状態だった。

 

入ってきた亮介の両親が、私の前に腰をおろし

「君もわかると思うけど、もう亮介もいないんだから…」

と、いつまでいる気?の気配で圧をかけてくる。来た時にはどうしたのだろう何があったのだろう、の一心で来てしまい、給与は少し先だった為に私にはその時の手持ちがなかった。

 

『帰りたいのですが給料日までまだ日がありお金がありません。必ずお返し致しますので御貸し願えませんか』

「物乞いみたいな真似を」

亮介の母はそう言って鼻で笑った。私がもし帰らなかったら帰らなかったで困っただろうに。好きに言ってくれてよい。もう抵抗したり反抗する気力もこちらには残っていない。

 

「ところであなたちょっと聞きたいんだけど、亮介の子を妊娠してるとか、そんな事はないわよね?」

来た。この時に、こいつらは本当にバカだと思った。息子の頭があんなにも切れるのに、そんなバカな頭でよくも、彼を。この時に私は、ああ、という事は、東京から亮介をつれ帰ってからは私にお付の興信所の連中を撤退させたのだな、と気づいた。メールで妊娠を告げずで本当に良かった。本当に良かった。私はなんと運がいいのだろう、と思った。その後に母親が言ったのだ。

 

「まぁもしあなたに?子供ができてても?亮介の子とは限らないし、ねぇ。亮介があんなにあなたの事で大変な事になってるのに、あなた、浮気してたんでしょう?」

 

ああ、なるほど。ああ、やっぱり。この時点で亮介が、その前のメールや私の連絡先を消していた事が確定した。それから、それは私を護る意味もあったのだ、という事も。確かに私は、あまりに亮介が電話にもでないので、亮介が一番に嫌がるであろう

"浮気しちゃうよ?いいの?"

を打っている。その時にはもう亮介は携帯を触れなかった。だから残っているのだ。それからそれを読んで、鬼の首でもとったようにそれを投げてくる。こいつらは、恋をした事もない、それも同時に確定した。甘えたようなその仕草の、浮気しちゃうよ?の意味が全く理解できずにいる、不完全なまま大人になった気持ちの悪い奴らだった。本当に、気持ちの悪い。

 

ここで私の疑問がわいたのだ。

ーーーーでは私が入れた留守電に亮介が気づかなかったのは。

 

私はバッグにいれていたあの日から飲んでいない残ったピルを放り投げた。

『まさか。そんな事がないように、しっかり』

亮介の母は目を丸くして

「こんなの飲んで、どれ程男の出入りが激しいかわかったもんじゃないわね、お父さん!」

それは病気の治療にも使う薬だ。こうした発想がすぐできる方が頭の中がド淫乱である。やるだけやって、子どもが出来たからと産んで、生むだけならば産める人間であれば誰だって母親だ。母親というのは、子を育てて初めて母親と呼ぶのだ。そんな事は20代の私にだってわかる。糞ババアの分際でそれも知らないとは。

「あなたが死ねばよかったのに、あなたなんで生きてるの?」

また、始まった。また始まった。私のバッグの中の夜勤用のセットの中に眉を整えるカミソリがあったはずだ。私はそれをゴソゴソ探した。

 

『わかりました。じゃあこの場でそうします』

無表情に答えてやると、父親の方が

「ちょっと待ちなさい。ここでは困るよ!ここでは困る!」

ここじゃなかったらよい、という事だ。だんだん笑えて来た。なんだ、このやりとりは。自分の息子がつい数日前に亡くなっているのに、他人にすぐに死ねなどと口にできるだなんてまともじゃない。こいつらは、まともじゃない。亮介は本当によく耐えたのだ。あなたは本当によく耐えた。もう届かないけれど、私もあなたと同じ痛みを知れた。それはとても良かったと思う。それらはいまの私に生かされているので、あなたの残してくれたものだと思う。

 

私は私で正直あの時、本当にどっちでもよかった。生きていても無駄な気もしたし、そこまでして護ってくれなくても良かったのだ、そうも思っていたし、何よりも、相手を知らず亮介を育ててくれた親だから話せばわかるかもしれない、等と簡単に言ってしまった。話しても解からない奴はこの世にはいるし、亮介は厳しい世界で生きてきて、それでも、ほんの少しの時間だったとしても、私に自分の中身をきちんと見せてくれた。私は何にもできなかった。無力だ。無力さに絶望した。

 

絶望というのは、自分の為に使う言葉ではない事も初めて知った。誰かの為に必死に祈っても、その祈りが門前払いで届かなかった時に用いるものだという事を。私は自分の無力さに絶望していた。願っても、叫んでも、だ。もう時間を巻き戻せない。どうしても、何をしても、私は無力だ。私は本当にここに存在しているのだろうか…そんな気になって両の手で顔に触れた。

「何泣いてんの、あんたが悪いのに!」

と怒号が飛んだ。その時、ふすまがバーン!とあいて

 

『おじさんもおばさんもいい加減にしなよ!ねえちゃんがいたから兄ちゃんは幸せだったんだと俺は思ってるよ!?何いってんの?ねえちゃんいじめまくって、二人とも何言ってんの…』

圭吾だった。ミニ亮介。もう亮介にしか見えなかった。一瞬、亮介が憑依していた。もし亮介が生きていたらきっと二人の事を許さなかっただろう。私をいじめると痛い目にあう絶対に。

 

その話が聞こえていたらしい三谷君がすっと現れて二人の前で

「僕ももうおいとまするつもりなんで深雪さんも東京帰りましょう。ここにいてはダメです。ダメになってしまいます。もう充分、傷つかれたと思います。お金なら僕が貸します。帰りましょう、東京。離れていても亮介はいつでもあなたの傍にいるし、亮介があんなに嬉しそうに、彼女が出来た、結婚したい、そう言った時に僕は、本当にあなたに感謝しました。だいじな友達をありがとう、そう思いました。もう帰りましょう」

そう言ってくれた。

 

亮介の父は息子の葬儀に来てくれた人に(この女が)迷惑をかけるわけにはいかない、という口ぶりで

「厄介ごとはこっちでなんとかするから、三谷君はお金の心配なんかしないで。なんとかするよ」

と言った。それからすぐにお金の用意をし始めて、空港へ送ると言い出した。荷物をまとめ、帰る前にお手洗いをお借りすると階下へ降り、勝手口の前のかごに置いてあった亮介の携帯からSDカードだけを抜き出した。あのカードには二人の思い出が沢山詰まっている。ざまぁみろ。一生動きもしないメールだけ眺めてやがれ、バーーーーカ。

 

父親の待つ車に乗り込もうとしている時に、戸口に立っていた亮介の母に初めて

「深雪さん」

と名前で呼ばれた。もう会う事もないのでここは大人らしく挨拶のひとつでもしておこうと荷物だけを車に乗せて、近づいて、お世話になりました、と頭をさげて顔をあげたら掌が飛んできて

『あの子の事を全部わかったように思わないで頂戴。二度とその顔みせないで。東京に戻ってあの子の分まで苦しんでさっさと死ぬがいいわ』

と言い放ち、扉をピシャリとしめられた。そうします、聞こえない場所で答えて、車に乗った。

 

空港までの道のり、父親は父親でどうでもいい思い出話をペラペラと話し始めた。どうせそれらも妄想だ。喪主の挨拶とかわらない。どっちでもいいから黙ってくれよ。亮介はそんな奴じゃない。何の妄想だ。臭そうなおっさんの戯言に付き合えるほどこっちは体力も残ってないんだよ…。

『うちのも気性が荒いけど、まあ今回の事は君が悪いから』

別れ際に言われた一言である。どいつもこいつも狂っていた。どいつもこいつも狂っていて、私は自分で全く気付いていなかったが、山の緑、夕日のオレンジ、それらの残像が焼き付いてしまったもので日が立てば元に戻るなんて思っていたけれど、飛行機に乗る頃には、この世から全ての色が消えていた。濃いか、薄いか、わかったのはそれだけだったのに、この時には全くそれに気づいていなかった。私の体が没落する、第一歩。飛行機の中で、周りよりも一段と空に近い場所で、私はこれから一体どうすればいい?そればかりを雲の上で亮介に問うた。