聴こえてくるのは、雨の音。

ある意味、避暑地(自分だけ)

キミの話-第三章 vol,1

 羽田から家に到着するまでの道のりをよく覚えているようで、あまり覚えていない。記憶、というのはその物を記憶しているというよりも、色が・光が・匂いが・温度が…と体中の五感を総動員してインプットされる物らしい。最近はてんでダメになってしまったが当時の私の記憶力というのは素晴らしいもので、誰かに紹介をうける際には必ず

"記憶力がとても良いメモ帳みたいな人。"

とその言葉を頂戴した。思い返すにこの時代により体を壊していて、人はホルモン系統を弱らせると認知を呼ぶらしい。あの時から私の感覚はあまり機能しなくなった。記憶と感情は繋がっている。経験から知っている。

 

どの路線で家まで辿りついたのかは定かではないが、重い荷物を引きずって乗り換えで山手線に乗ったには違いない。覚えているのは、東京はこんなに無機質だっただろうか、という事と、何故か眩しくて仕方なかった事だ。とにかく視界がぼんやりと、眩しかった。先日眼科で瞳孔を開く目薬を差された。その時の感じによく似ていたので、もう瞳が開ききっていたのかもしれない。

 

山手線で高校生が乗っていて、その隣で立ったまま、亮介が枕元に出しっぱなしにしていたMDウォークマンがある事を思い出し。三谷君がそれを私に預けてくれた事を思い出し。耳にイヤホンをさして再生した。

 

ここまで聞いた、その場所から始まった。Syrup16gのアルバムcoup d'Étatからハピネスが流れた。"想像がおり成す"という歌詞で止まっていた。そこから耳に流れ込んだ。一緒にliveにも行こうと言っていた。亮介が何も知らないまま、その四年後、彼らは解散した。たった一音、文の区切り、その瞬間に生と死があった。あちら側とこちら側に引き離された。

 

ここまでを、彼はこの世で聞いて、続きはあちらで口ずさむだろうか。

それともここから先は私だけが口ずさむべきなのだろうか。

 

何故ここできりあげたのだろう。そんな事になんの意味もないのかもしれない。手洗いに立つのにここで止めた、隠れて煙草を吸いに行くのにここで止めた、私に電話をするためにここで止めた、話があると階下から親に呼ばれてここで止めたーーーー。

 

私の中にはありとあらゆる亮介がいた。どの彼だっていつでも容易に想像出来る。下唇をペロッと舐めて、その後に唇の端の方を親指で拭うような仕草をする。ほんの数日前は、部屋でお祝いをしようなんて電話口で盛り上がったのにそのまんまいなくなり、予定では、戻ってきたら自分もまだ信じられないけれどあなたの子を授かったみたい!なんて報告し、それは心から喜んでくれる話で、耳に口づけて、瞼に口づけて、指を絡めて、みゆちゃん最高♡ってニヤニヤっとする顔を見る、時間が進むってそういう事でしょう?それなのに。

 

耳がなかった、瞼さえなかった、指だってくっついてしまってて繋げなかった、私は本当にそれを見たんだろうか?これは異世界とか時間軸とか…そういう…そういう何かいけない方向の、別の道に入り込んでしまっていて私が、私の方が、帰るタイミングを見つけられないのかもしれないと思った。

 

亮介が家で待っている。だから早く帰らなきゃ。

 

"だけどたまに思うんだよ これは永遠じゃないんだって 誰かの手にまたこの命かえすんだ" Syrup16gの五十嵐君が歌う。錯覚する現実。たたみかける記憶。発狂する。発狂する。発狂する。

 

山手線の中、私は盛大に吐いた。前の高校生はきゃあと飛びのいて、ちょっと大丈夫?の前にうわっ汚い!かかってない?と言った。人間は、汚いもんなんだよ。皮を剥がれたらただの肉の塊だ。皮膚の強さも、瞬きの速度も、お前らが普通だと思ってるような事は全部、普通だなんて一言では済まないような事なんだよ。私の中で、もうひとつの命が疼く。パパが待ってる。早く家に帰ろう、ママ。そうね、早く帰ろうね。

 

口元をぬぐっただけで、ごめんねなんて言わなかった。気分が悪かった。助けても欲しくなかったし、なんなら怒り狂ってタコ殴りにでもして殺してくれる方が助かった。愛する人のぬめりのある肉の、脂の味が、口の中にあっただけだ。舌の上にのったままだ。

 

 

最寄り駅に着いた。駅から家までの道。こんなに遠かっただろうか。ここには笑い声しかなかった。電柱がもうすぐ。いちいち電柱に引き留められた。ここでじゃんけんをする。次まで背負う。またじゃんけんをする。イエーー!亮介、じゃんけんよっわいwww可愛い顔をしてた。亮介はヒヨコみたいな顔をしてた。可愛い顔をしてた。最期、触れさせて貰えなかった。

 

家の前まで来て、足が止まった。花束がどっさり置いてあった。電話で話したあの男の名前もあった。その後電話で話した詩織さんの名前もあった。

"ご冥福をお祈り致します"

私はこの時からこの言葉を絶対に、どんな状況でも、絶対に使わない。マナーがなってない、そう言われようがいい。あっちに行っちゃったんなら元気でね、とたいして変わらない響き。あっちに行った人はもう関係ない、そう聞こえるその響き。

 

あっちに行かせたのはお前らのせいもあるのかも知れないのに、その場限りの、しょうもない挨拶で、帰りに飯なんか食いに行きましょうかーなんて盛り上がって?なんなら酒でも?集まりたいだけじゃないか。形ばかりする事したからって送ってやったみたいなツラすんな、勝手な真似をするな、亮介は死んでない。ふざけんなお前ら、ふざけんな

 

花を踏み散らかす、なんて行為を自分がするなんて思わなかった。とにかくミキサーにかけたくらいにアスファルトに汁が飛び散るまでにギッタンギッタンに踏み散らかした。もう形もないくらいに踏み散らかして、そのまんまゴミステーションの目につくところに山のように積み上げてから扉をあけた。

 

扉をあけたら数日間カーテンも開けられずで、籠っていたままの亮介の香りがそこにあった。もう何にも考えたくない。全部なくなっちゃえばいい。亮介の洗濯物だけがないままで、ほかの物は全部あって本人はきっとコンビニにコーヒーでも買いに出ているはずだ。そのはずだ。亮介が脱いでまだ洗濯に出していないシャツを着る。暑い夏の事だ。一日の汗を吸って、何日も洗濯に出されないままだったそれは、本人の香りそのままでもう一生、冬もTシャツ一枚でいいや、この一枚でいいや、これだけで。マットレスには亮介のつけた煙草の焦げ跡があって、私が寝転んでそこがざらついて固くなっているのが肌にあたって痛い、と、寝る場所を交代したりもした。何かにつけ、全てにおいて、細部にまで、亮介がいる。私の記憶には、亮介がいた。マットレスに突っ伏して、亮介の香りに包まれて、タオルケットも枕も何もかも、それは彼そのもので

 

『亮ちぁああん、聞いてぇ、あのねぇ、私数日、酷い目にあったんだ。慰めてー。みゆちゃん虐めたら承知しないって怒ってぇ~。後でオリジンのトントロ丼買いに行こうよー??お腹すいたでしょー?私、生きてちゃだめなんだって。だから多分もう、ここには長くいられないけどー、でも…幸せだったよね』

 

独りの声が部屋に響く。あんなに独りだった事はない。人生の中であんなに独りだった事はない。私は何をすればいいのか、次に何をしたらよいのか、何も選べず、何も思いつかず、部屋はがらんどうで、全部必要で、でも全部不必要で、亮介の煙草の箱から引き出した銀紙さえ捨てられず、床には灰もこぼれたままで、窓もカーテンも開けたいけれど彼の香りが逃げ出すのも嫌で、とにかく小さく小さく丸くなった。

 

時間がどれくらいたったのかもわからなかったし、何をどうすればいいのかもよくわからない中で遠藤さんから着信があった。

「戻りましたー。戻ってきたらー死にそーでーす。部屋がつらい、世界がつらい、生きるのがつらいーーーwww」

遠藤さんは最寄り駅まで来てくれるという。あんたの食べたい物を腹いっぱい奢ってやると言う。これと言って食べたい物はなかったし、私は生きていてはいけない身分なのでわがままをいえないよ、と告げると、何が食べたいのかとしつこいので、味のある物、とだけ答えた。何を食べたって味なんかしない。でも…

 

「なんでもいんですか?なんでもいんすね?火に焙られた肉がたらふく、食べたいです。火に焙られた肉を、みたい」

 

のち、聞いた話によると遠藤さんはこの時の私の言葉に、精神状態が極めて悪い要注意!と思ったそうだ。こいつは絶対あとを追う、なんとかしなければ、そう思ったらしい。

 

遠藤さんと落ち合って、東京での初飯は焼肉だった。網で焼いて滴る脂を眺めながら

 

「亮介もこんななっててー人間の皮膚ってすごいすよねー、どんだけの力で引っ張っててどんだけ支えてんだって思ったなー。なんかあのー、銀色のー、よくわかんないカボッとはめて支えるやつー、あれがないと皮膚がないもんだから手とかあげると肉とか落ちちゃってw骨みえるから落ちないように支えられてたけどー。不思議ー。なんであんな事になるんだか不思議ー」

 

「私ね、なんかもう向こうの親に最初から最後まで、けちょんけちょんでw最後の最後、ハリテされちゃって(爆)東京帰ってさっさと死ね!って言われたから、言われなくてもそーするーって思ったのに、こんないい肉食べさせて貰って、ほんといいんだろうかwww」

 

「周りはね~、私がいたから亮介生きたんだよって言ってくれたけど、なんかもう、最後の方とか?待ってないでさっさと死んじゃえば楽だったのに、どうせ私もすぐ会いにいくじゃん、何待ってんのって思っちゃって、私の存在が良かったのか悪かったのか全くわかんなかったけど、こんな事なら生まれてこなきゃよかったわって、初めて思ったなぁ~。痛感したwいろいろ、バカバカしくてww」

 

私が次から次に話すとんでもない土産話を遠藤さんは何も言わずに聞いてくれた。うんうん、そうかそうか。叱り飛ばしてくれれば話の辞め時も解かったのに、何も言ってくれないので、私はベラベラベラベラと話し続けた。途切れるのが怖かった。亮介がこの世にいないという事を突き付けられるのを最大に恐れた。それも、私のせいで。全部、私のせいで。

 

『あんたあの部屋どうするの?親が引き上げにくるんじゃないの?』

「ですよねー。そこなんですよねー。あの部屋で死んで、扉あけて私が腐ってたら文句言いながらでも処理するか、それともどうかなー?あ、興信所使ってたって話だったからうちの親元に連絡行くかもw死んだ報告と一石二鳥!賢い!それだなw」

『自分の部屋ってまだあんだっけ??まだ借りたまんまよね。取り上げられる前に色々をそっちに運びこむ、どうよ?亮介君だってあんたの傍にいたいでしょ』

 

箸が止まった。そうか、私はあの部屋を出なければいけない。亮介とお別れしなければいけない。店はサラリーマンで溢れ、がやがやと喧しく騒音のひどい店内だったが一組の団体がいなくなると急に静かになった。私は自分の指先を見ていた。私には、形がある。私には。何故、形があるのだろう。悲しくなった。

 

携帯が鳴った。亮介の実家からだった。出ると同時、飛び込んでくる罵声。亮介の弟からだった。

「お前は最低な女だな!兄ちゃんを返せ!兄ちゃんを返せよ!」

それはもう電話口から漏れて遠藤さんにも聞こえるような張り裂けんばかりの怒声であった。時間がたって急に現実感が襲い、何かに当たり散らしたくなるほど、胸の痛む時間だ。それに彼はまだ若い。付け加え、それでも亮介の血縁と繋がっている事は現実として嬉しかった。誰かを愛する恋をする、そんな物の定義はわからないけれど、彼がこの世に少しの時間でも本当に存在していて、私は幻をみていたとされない事が安心できる要素でもあった。同じ人の話をしている、内容がどうであろうと。

 

でも、次の瞬間、そんな気持ちは踏みにじられた。

 

「お前がした事がどんな事なのかわかってんのかよ。お前のせいで兄ちゃんは死んで、うちの母ちゃんは今日の事で寝込んだよ。お前今日、空港で父さんに送ってもらう途中に父さんを誘惑したらしいじゃんか!!やれれば誰でもいいのかよ!!父さんは断ったからお前とは寝ずに済んだって言ってたけど、お前みたいな女は本当にさっさと死ね!!うちに何の恨みがあるんだよ!」

 

ほぅ…。これには聞こえていた遠藤さんも目を丸くした。

『あんたら、頭おかしいんじゃないの?』

笑いながら言って電話を切った。そのまんま、遠藤さんに「ね?」と言うと遠藤さんは珍しく私を抱きしめた。お箸についてる肉の脂がつきますよー、服につきますよー、そんな言葉しか返せなかったけれど、あの時に、遠藤さんは私の置かれている立場を理解して、私が沈み込んでしまわないように手を差し伸べた、そんなような抱きしめ方だった。互いに、言葉にならなかった。

 

その後、たらふく食べさせて頂いて本当に申し訳ないのだが、食べた分がリバースしてきて、私はトイレでゲェゲェと吐いた。全部吐いた。何もかも吐き出した。怒りよりも何よりもひっかかったのは、何故そこまでして私を悪者にしたいのだろう、そこだった。事故だと死亡報告書をあげたのはあの人達だ。あれは事故だった。一方で、あれは自殺だった、私との関係を苦にした自殺だった、でも、だけど。あれはまだ誰も寝静まっているような時間じゃなかったのに。

 

私との事を詰め寄ったら、外の空気を吸いにいくと表に出た。そしたらすごい火柱が上がったあとに断末魔が聞こえて、火だるまの亮介がそのまま家に突っ込んできた。毛布で何度も何度もついた火を消したが発火を繰り返した。亮介は頭から灯油をかぶって火をつけた。突発的に。原因は君だよ。原因は君だ。

 

何故そこまでして私に全てを被せたいのだろう。本当に、原因が私にあるとしたら、近寄りたくもないのではないか。何も言わずに恨めばよい。だいじな息子だったとしたら息子の気持ちもあるとして、理解を示さなかった自分達にもどこか悪いところがあったのではないか、そうして自戒すべき部分も人にはあるのではないか、なのにあの人達は一体何がしたいのだろう…

 

そんな風に考えるも時間が慌ただしく動き、本人は本当に不在で、居なくなってしまった事には変わりがなくて、あちら側の持つ、何かを責めないと自分の気持ちが崩れそうだ、それも理解ができるし、私はそうであって欲しかった。それならばまだ、亮介は愛された事になる。だからもう何も考えるべきではない。私が悪く言われていて、それで話が済むのなら、何も。口を拭う。吐き出すとスッキリした。

 

 

店を出てから遠藤さんを初めて二人の巣に招待した。座る場所もないよ?亮介がいなくなるのがまだ少し…無理で、掃除もできないし、空気も悪いけど、そう言い訳しても、遠藤さんは私が気になったのだろう。ついて行く、と部屋まで来てくれた。

 

部屋で遠藤さんは私に言った。

『あんた、今は何にも考えられないだろうし、それは仕方ないと思う。でも、この話、なんかおかしいって思わない?亮介君はさ、本気だったよ?あんたと生きていくって本気だった。なんでそれがさ、迎えに来られてノコノコ帰んのよ。まずそこがおかしい。あんたが邪魔だからあんたを消すって言われて仕方なく、なら、筋は通る。死亡報告書の内容と実際が違う、この部分は保険の関係とかそういうのもあるのかもしれない。それにしたってさ……どっかおかしいでしょ。なんかおかしいでしょ。今はね、まだ混乱してる時だから、わかんないかもしれない。色々がわかんないかもしれない。でも、時間がたつとゆっくりピースが埋まってくみたいに、きちんと一枚の絵が完成するように、真実ってのは出来てんのよ。特に、悪い事だとしたら尚更ね。あんたも読書好きだったらわかるでしょ?w

 

書いておきなさい。忘れないように、どうだったか。いつか助けになる。自分は生きてちゃいけない、なんて思う必要、ない。亮介君はあんたと生きていきたかったんだよ。あんたが生きてないと、亮介君、それこそ、存在した意味をなくすよ。辛くても、生きていかないと』

 

遠藤さんは鼻をすすりながら、亮介のPCを立ち上げて勝手に触っていた。私は何も言わずにその言葉を聞いていた。亮介のPCは起動させると勝手にメッセンジャーが起動してログインするようになっていて、今までの会話ログが閲覧しようと思えば閲覧できる。

 

『あんためちゃくちゃ、いい恋したねぇ。めちゃくちゃに愛されてるよ。あんたなんかのどこがいいんだかwほら、見てみなよ』

 

遠藤さんが指し示すメッセンジャーのログにはどのページもどの人との会話にも私の存在があって、私との事をのろけまくる、亮介の姿があった。絶対幸せにする、絶対泣かさない、めちゃくちゃ愛してる、俺ら一緒になるから、いい家庭築くわw

 

『あんたのせいじゃない。』

遠藤さんの言葉の語尾が滲んだ。

 

私は亮介がいつもそうしていたように、壁にもたれて、泣いた。