キミの話-第四章 vol,1
私たちは結婚した。周りは愛されて結婚するなら幸せだよ、と言った。結婚は愛し合ってする物だ、と言うと、もう誰も二度と愛せない体質のくせに?と友達は笑った。そうだろう。私は世の中の上から下までを眺め過ぎた。でもその感情があまり上下しない状態はフラットで楽だった。めちゃくちゃに愛があったとしたら、私のような人間は相手の足を引っ張ってしまうだろう。いつでもそうだ。自分の背景もそうだ、気持ちの方だってきっと何かがあれば
(私の事を愛していると言ったじゃない。あの言葉は嘘だったの?)
そう言わなければならない。だから丁度これで良かった。もう愛は充分に知っていたし、恋をする程に熱くもない。冷め切ってしまっていた。後はこんな私に対し、相手がどこまで持つかだ。私は亮介と過ごした時ほども笑わなかったし、話し方もキャッキャとした物でもなくなった。燃え尽きた感じしかなかった。
新宿に入力のバイトを見つけた。結婚しても若い二人の事だ。主人は職人として人に使われていたし、私は私で一人でいると色々と考えてしまうので外に働きに出たかった。自分で自分の好きな仕事が選べる。たったそれだけが一年の事を考えると凄い事だった。会社に入社しようとは思わなかったけれど、自分の得意な場所を生かせたらそれで良かった。だからと言って寝技を必要とするような場所には戻れないし、戻りたくない。
仕事は退屈だった。同年代がいても男ばかりで、あの仕事は他人と話さなくてもいいからやっている、という人も多く、行って、仕事して、帰るだけ。前職の本社の人間から何度か、社会復帰したなら戻ってくればいいのに、と言われた。私がいなくなったのは体を壊したからだ、と周りには話してあった。体じゃない、壊したのは心だ。あの世界は移り変わりが早い。日夜新しいプログラムが出る。二年近くもブランクがあればもう私の力なんて必要としない世界になっているだろう。私がいなくなったって代わりはいる、どの世界にも。なんなら新しい力の方が私なんかよりも充分、即戦力になるかもしれない。
"あなたがいないと華がなくて、笑いがなくて面白くないよ"前職の同僚はそう言った。私は現場の華だったらしい。技術職は男の方が多い。どんな人間でも華になれる。例え毒があっても。それでも私は断った。理由があった。新宿の地下に潜っている時に課長が来たのだ。それから言った。
『ダブルワークは禁止のはずがそうか…お前はいっつも疲れてたけどそうか…あの頃もこういうところで働いていたか。それっぽい色気はあると思ってたんだよね。会社の人間には言わないからもう業界に戻ってくんなよ。やる事やったなんて言われたらこっちの椅子が危うくなるんだから』
皆さん、某会社の役職は最低です。そういう事もあって私は、今の仕事は今の仕事で楽しいから、と言って断った。
退屈な入力バイトの先で、話もしたような事のない男性に呼び止められた。なんですか?と言うと"昔、風俗にいたんだって?"と言われた。人違いじゃないですか?と言うと、ビルの入り口の下に男が立っていて、私がビルに入って行くのをみたがここは待機事務所があるんですか?と尋ねたらしい。最悪だ。新宿は危険。顔が売れれば売れる程危険だった。そういう事もあるので、もし簡単なお小遣い稼ぎを必要とする子がいてその世界に行こうとお考えならばやめておいた方がいい。何の覚悟もなく入るような場所じゃない。あなたの為に泣く人がいないかどうか、よくよく考えるべきだ。それならばまだダブルワーク禁止の会社で働いていても、空き時間に派遣のバイトを入れた方がまだマシ。それはあなたの地位や人生を揺るがさない。誰かを泣かせると、自分はその倍泣く事になる、という事。
結局そうなると『寝れば黙っておいてくれる?』となる。私は結婚したのでその方法はやめるべきがベストだろう。いつまでも引きずるほど馬鹿じゃない。家に帰ってその事を主人の話した。理由があってその生活だった、と解っている相手がいるのは心強い。誰にも言えない、そうした裏を抱えるのは生きていく上で厳しくなる。私は死ぬ為にそれをしていたし、それらも全て話した上の事だったので、相手の気持ちは置いておいても私は助かった。酷いかと言われれば、それも込みで結婚したのだから相手にもそれなりの覚悟はあっただろう。主人はとても軽く、やめればいんじゃね?と言った。やめるか!そーだねw主人の何も考えていないような軽い雰囲気は私を支えた。
数日とても熱っぽい日々が続いた。あの頃、酒や薬にズブズブだったから体が普通に働かない日の方が多かったし、それは仕方がない事だと諦めた。それにしても誰かの奥さんになったのに明日、死にました、では、主人を苦しめる。遅出の仕事の前に病院に行った。妊娠していた。忽ち怖くなった。主人の子には違いない。違いはないけれど怖くなった。母になる自信がなかった。先日まで生きる価値もなかったのだ。妊娠を伝えようとすると車が突っ込んできて、とか、突然洪水が起きて、とか、何か悪い事があってまた独りになるのではないか、誰かを意図せず殺してしまうのではないか、と恐ろしかった。家族が増えるのに私は全く喜ばなかった。PTSD症状だったと言うのは後の診察でわかった。何かを変える必要があった。誰かに先に話してしまえば、同じ時を繰り返さなくて済むのではないか、そう思った。だから誰かに先に伝える必要があった。
駅のホームからマサトに電話した。
『おぅ生きてたか!元気してんのか?』
あなたの3年後の花嫁は3年を待たずに結婚しました。それには理由がありました。誰にも言えない理由がありました。横道に逸れて私が勝手に繰り広げた先に本当の愛があり、その愛がなくなって私は傷つけ、傷つけられて、もう戻れない場所にいます。目の前の線路に飛び込んだら全部終われるのに今の私にはそれが出来ません、どうしようもないです、色々を恐れてしまって。
全部全部吐き出してやりたかった。
「うん。元気。私ね、結婚したの。今日、お腹に赤ちゃんいるってお医者さんで言われたんだ~」
出来る限り平気なフリをした。亮介が怒るだろう。亮介が怒った相手だ。亮介の恋敵。
"みゆちゃんがそんなに好きな人だったんだから俺なんかよりも断然カッコよくて、断然いい人なんだろうね、めちゃくちゃ妬ける!もお頭おかしくなりそ!"
亮介はたまに持ち上がるマサトの名前を聞くと、そう言っていた。
『……そうか、それは良かった。おめでとう。そんな事は俺に言わずに腹の子の父親に言えwもう俺もお前の相手せずに済む。これで二度と話す事はないなw』
無事、私は父親より先に誰かに告げた。隕石は落ちてこなかったし、私を誰もホームから突き落とさなかった。ホッとした。
「そうねw長い事ありがとう。」
『おう、二度と電話してくんな?喧嘩しました、とか、離婚しました、とか、そういうの、いらねーからw』
「なりませんwどうかお元気で。」
『おぉ、幸せにな』
「ありがとう。じゃあ」
『おぉ。あの世でな』
あの世で会うのはきっと、あなたではなく亮介だろう。自分が気づかないだけで色々な人に愛されていたのかもしれない。人の心なんて誰もがわかったようなフリをして、これっぽっちもわかっていない、だから想像力を必要とする。
こうだろうか、ああだろうか、想像する事が思いやりになる。この言葉だって表面だけ受け取れば、私を嫌いで、それなのに私が振り回して俺はいい迷惑だった、そう聞こえるけれど、そうしなければいけない、も、そこにあるのかもしれない、そうやって考える事が"誰も傷つかない"という事だと知った。苦しんだ時間は無駄ではなかった。亮介は私に色々を教えたし、辛い季節にもそれなりの学びがあったには違いない。何より、私は、亮介のような誠実な人間に愛されて守られた。私はそれを穢すわけにはいかなかった。それは自分で自分を穢さない、とイコールだ。私の中に穢されてはいけない誠実な命がある。いなくなった命と、これから生まれてくる命。怖くて逃げだしそうな中でも私は笑っているべきだ。逃げてはいけない。
戻ってから主人に、妊娠してました、と告げた。
「えー!俺、親父になるの?今のタイミング!なんで今!金かかるぞぉー…?どうしようか」
そんな事を言いながら嬉しそうだった。金なんかなんとでもなるでしょ。飯さえ食えればそれでいい。金で買えるもんなんて、たいしたもん、この世界にはないんだから。
妊娠中は安定せず、何度も夜に病院の扉を叩くことになってしまったり、途中に主人は誰かと恋に落ちたりと色々があったけれど、私はその命を恐れながら守りきって翌年の夏前に母親になった。