聴こえてくるのは、雨の音。

ある意味、避暑地(自分だけ)

キミの話-第三章 vol,2

遠藤さんが部屋をあとにしてから一人であの部屋にいるのも耐えられなくなって明け方に表に出た。秋を迎える気配の澄み渡ったしんとする駅前に、初めて私を待っていた時の亮介を思い出し、ガードレール代わりの手すりを触りに行ったり、二人で歩いた道を珈琲の缶を片手にフラフラし、そろそろ朝も本格的に始動するそんな時間、駅前の不動産屋の前にとても不思議なものを見つけて立ち止まった。私はその前でしゃがみこんでジィっと見つめた。動いた。生きてる!!真っ白の大きな丸い塊が動く。フクロウだった。目の扉、シャッターみたいな瞼が下から閉まる。これだ!と思った。これだよ、亮介、瞼なんかなくたって、進化すれば下から上がる。あの目でみた最期の景色は一体なんだっただろう。私の姿ならいい。私の姿だったなら。

 

フクロウが私に言った。「心配だよ」

その後、フクロウが喋った!という話をしても誰も信じてくれなかったが、真っ白の塊は私を見つめて一言、私にそう言ったのだ。正気でいられた最後の朝の事。私はあのフクロウを最後に見た。

 

部屋に戻る前に朝のコンビニで酒を大量に買った。何か誤魔化すものが欲しかった。現実をみたくなかった。コンビニのいつものおばちゃんが顔を出し

「あらお姉さん、久しぶり!なによ~朝から吞むの~?そういえばお兄ちゃん、見てないわね。元気?」

と台を拭きながら聞いた。元気だと思います、と答えた。

「思いますってなによ~。あ、里帰り?一緒について帰っちゃえばよかったのにwお兄ちゃんと結婚するんでしょ?」

お兄ちゃんと結婚……。

「お兄ちゃん、夕方にいっつも寄ってくれるから~。ほらぁ、お姉さんが戻ったら珈琲飲むっていうからそれいつも買いに来てて。その時に、引越すかもーなんて話しててさ。結婚するんですーって言ってたから」

亮介には亮介の私の知らない時間があって、そんなの日常のどうでもいい一コマだけどそれさえも愛おしくて、彼を知っててくれてどうもありがとう、そう思ったので

『どうもありがとうございました』

と頭を下げる途中に涙が溢れて溢れて、次から次に溢れて止まらなくなってしまい、おばちゃんはオロオロし、どしたの?別れたの?泣かないでよ、余計な事言っちゃった?と言われた。

 

『亡くなりました』

 

と伝えたら、え?うそでしょ?いつよ?と色々聞きたかったようだけれど、もう朝も始まっていて後ろに人が並び始めていた時間、扉の方に近づいていくとおばちゃんはレジ打ちをしながらひと際大きな声で

 

「また来る?」

と聞いた。頷くだけ頷いて、もう二度と行かなかった。お元気でいて下されば幸いです。数分、数秒でも、彼の声を聞いて下さった。

 

家に戻って部屋の中にいたら、もう所かしこ、所狭し、ありとあらゆる場所に亮介がいて、その雰囲気が溢れていて、部屋に座っている事も寝転んでいる事も出来なくなってしまった。ユニットバスの便器と風呂の間は狭かったし汚かったけれど落ちていた亮介の陰毛が視界に入って、それさえも愛しくて、その場をあとにすることが出来なくなってしまい、そこに閉じこもって飲み続けた。便器は目の前にあるし、いつ吐いても困らなかった。飲んでは吐いて飲んでは吐いて、多分私はあの中に3日はいただろう。

 

 

ある日の夕方、ドアのチャイムが鳴った。外の様子を見渡せる場所にはいなかったので知らなかったが、開けるとそこには宅配業者がたっていて、後ろは雨が降っていて、配達員の前にはボロボロで酒臭い私が立っていた。

『14日指定で届いておりまして、何のご連絡もないままだったので寄りましたー。在宅でよかったですー。センターに戻されてしまうのでー』

 

頭が痛かった。頭が痛い。いるのなら、と、車に荷物を取りに行き戻ってきて言ったのだ。

 

『ご本人様からご本人様あてでーす』

 

この時、私は、落ちた。完全に、踏み外した。後ろから殴られたくらいの衝撃だった。何が何だかわからないままそれを受け取り、重たいドアはバタンと閉まった。外は雨でカーテンの向こうからはまだら模様の薄暗い影が部屋を照らして、暗く陽が傾く部屋で私は玄関にぺったりと座り込んだまま、動けなかった。

どれくらいそうしていたんだろう。

 

14日指定で、本人から本人宛。過去の本人から、未来の本人へ、コムサで購入された服が販売店から一度届き不在で引き取られ、私の手の中にやってきた。溝は、どこにあるんだろう。時間の溝は、どこにあるんだろう。過去と未来の連なるその中に、本人の気配だけが消える。ああ、なんだろう。どうして…どこに行ったの?

 

部屋の隅をみたら数日たまったままの埃が落ちていて、亮介の髪と私の髪が絡まっていた。あの埃でさえ形がある。ここにいたと言っている。それなのに、何もなかったように時間だけが流れて、亮介は亮介としてここにはいられなくなった。私もいつか、私ではなくなってしまうだろう。私は私である事をやめたって、きっと誰も気づかない。苺味のアイスだ。苺味の。それは私ではない、と、気づいてくれるその人が、その相手がいなくなってしまった。その時間の溝はどこにあって、何があったの?

 

14日、あなたは東京に戻ろうとしていた。自殺ではない。自殺ではない。自殺では。

 

だとしたら。だとしたら私を護った事になる。何かから私を護った事になる。事故だなんて初めから信用していなかった。あちらの話が二転三転する中で、とってつけられたような事故という言葉には何の信ぴょう性もなかった。可能性が高いとすれば、中途半端な断薬もあった事だし、考えたくはなかったが自殺という事しか思い浮かばなかった。私はどこかで気づいていた。気づいていたけれどあまりに現実離れしている色々を受け止めるだけの余裕がなかった。だから気づいていないフリをした。私は護られるような価値はない。私が死ねばよかった。私が死ねばよかった。そうだ、そういう意味だ。

私が死ねば物事が丸く済んだ、こんなことにならずに済んだ

それはそういう意味だったはずだ。亮介は、殺されたのだ。

 

息が出来なくなった。私が殺した、私がいたから。

そのまんまの恰好で外に出た。もう充分だった。もういい。もう。

 

外は雨で視界が悪い。とにかく大通りへ。走った。走って走って、タイミングよくやってきた白い乗用車の前にそのまま飛び出した。運転していたおじさんは血相を変えて出て来て危ないじゃないか!と怒鳴り散らした。私はその声を上回る大絶叫で

 

『殺してください。お願いします。殺してください』

 

と叫んだ。泣き喚いた。もう限界だった。初めからそうして貰うべきだった。私が死んでいればこんな事にはならなかった。私たちは恋をしていたのではない。私たちはその存在を求め、命をまもりあっただけだ。数日、極力、泣かずに過ごしてきた。離れる事が辛い、そんな軽い物じゃなかった。互いが互いを護りながら、鎌を持ち、奪い合う。愛し合うその手に永遠を持ち、そこにみた永遠を、時間の溝に捨てる。

 

君になら、君の為なら、何かに食べられる事だって恐ろしいとは思わない。僕の君。僕の君。君がいなければ、僕はこの世界を青いとは思えない。君がいるから、僕のいた世界は青かった。青かったんだよ。

 

カマキリは祈った。

 

どうか気づいて欲しい。君だけだったんだよ。

 

 

残された私にとってこの星は、もう青くはない、完全に色を失った、ただの石だ。どうでもいい、なんの感情もわかない、闇だけが広がる、そんな世界になった。