聴こえてくるのは、雨の音。

ある意味、避暑地(自分だけ)

キミの話-第二章 vol,15

数日前、数時間前の私たちはまだ病室にいたはずだった。知らない街の知らない病院の緑色したリノリウムの床は足音を吸収し、靴を脱いでぺたりぺたりぺたり。その廊下は霊安室に続いていて、靴を履く気にもなれず、サンダルを脱いでぺたりぺたりぺたり。

 

「あの…」

 

知らない人が立っていた。知らない人だから私ではない。私はもう誰からも見えないはずだ。もう私はここにはいないし、私が誰でも、何をしていても、私の事を知っている人なんかここにはいない。

 

「あの…」

 

その人はもう一回私を呼び止めて、しっかりしてください、と言った。不思議だった。

「亮介の、だいじな人、ですよね?」

とその人は言った。だいじな人。亮介は私を、俺の彼女、と人に紹介した事はない。だいじな人。その呼び方。やめて欲しかった。現実なんかもういらないのだ。なぜ呼び戻す?泣きもせず笑いもしない、ただじっとその人をみるだけで、また知らぬ顔をした。

 

「あの、ボク、三谷って言います」

勝手に自己紹介した。へぇ。で?

「ちょっと話があります。しっかりして下さい」

彼の声も震えてた。自分がしっかりすれば?そう思って笑った。

 

「ボク、あの夜、実は待ち合わせしてたんです。里帰りで戻ってきてるって、昼間に連絡があって、ああそうなんだ、じゃあ会おうっていう話になって…夜、時間あきそうだったんで、家に迎えに行くわって電話、かけなおしたら、電源入ってなくて、だからそのまんま、自転車で家まで行ったんです。そしたら……

 

そしたら救急車が来てて……それであの、もう何があったとかよく…今もなんかよくわかってません…でも、あの、救急車乗せる時、ボク、彼のそばにいて、そしたらその時はまだ、ちょっと…なんとか、なんとかちょっとだけ…話せる状態で……たぶん、もう目とかは見えてなかったかもしれないけど、でも、言ったんですよ、ありがとう、ごめんね、あいしてるってつ…まで、聞き取れました。伝えて欲しいって意味だと思いました。

 

亮介が戻ってきてるって話を電話でした時に、大事な人がいて、その人と一緒になるのに話まとめて東京に帰る、だめなら逃げようって思ってるって言ってたから、早くしないと会えなくなるんじゃないかと思ってて…話が難航してるって言ってて、だから急だったんだけど、じゃあ今日どうかと思って行ったら、そしたら…あの…あの…」

 

話しながら、彼は泣いていた。この人は何を泣いているんだろう。何か悲しい事があったんだろうか。

 

『亮介ってさ、私の事、彼女って言わないんだよねw』

私は笑った。

『亮介さ、私の事、だいじな人って、呼ぶんだよねーw』

彼は何も言わなかった。ただ私のその言葉にもっと泣いた。何を泣いているのだ。

 

「亮介が、好きな人が出来て会わせたいって言ったのってあなたが初めてでした。」

『知ってるよ?京大の子がさ、部屋に来たの。その時にその子が言ってたし』

「京大……あ、もしかして…」

心当たりがあるらしいので、私ももしかしてと思って

『ありゃ、あなた、亮介の釜めし仲間ってやつなの?あらどうも初めまして。私たち、明日東京に帰るって約束してるからもう帰るけど』

と言うと、また、腕を掴まれて、しっかりして下さい、と泣かれた。

 

何故か知らないおっさんが車に乗れと言ってきて、あの人誰なの?と彼の後ろに隠れたら、それが亮介の父だった。そのまま家に連れていかれる時に、さっきから嫌味ったらしくウダウダウダウダと小言ばっかり言ってる糞みたいなババアがいて、ああこれがあれか、亮介の母なのか、全く似てないな、とちょっと笑った。

 

車の中で

「お父さん、本当にこんな女いえに連れて帰るの!?放っておけばいいのに。勝手に来たんだし。」とか

「亮介だっていい迷惑でしょう~好きでもない女が急に家に訪ねてきて、自分がいないのに一緒に過ごすなんてなったら、怒り狂うんじゃないかしら?」とずううううっと、本当に家に着くまでずううううっと、言っていた。

 

父親は父親で、仕方がないだろう、来てしまったのに知らない顔はできない、とか、何かこう、捨て猫か何かがちょっと優しくしたら家まで着いてきてしまった、みたいな言い方をした。

 

なんで亮介はいないんだろう。どこ行っちゃったんだろう。

 

家に着いたら、敷地の中にある小屋が全焼状態で、手前の祖母の家とかいう場所に連れていかれ、仏間の隣にあるテレビのある部屋に通された。

『話の手前……事故だって思いたい。思いたいけどねぇ、あれは自殺だよ…』

と私に言った。はい???

『そうなる前にねぇ、私とその…君の事で揉めたんだよ。その…君には言いづらいけど、君と別れるのに手切れ金がいくら必要なのか聞いたら、家を出るってね、その…』

となんとも歯切れの悪い言い方をした。

 

父親が言うには、亮介は煙草なんて吸うような子ではなかったのに、どうやら君に東京で悪い事の全てを教わってしまったらしく父である自分に君との事を反対をされ、しばらくは911の時に流れるビルに飛行機が突っ込む自爆テロ映像をぼんやり眺めていたが急に立ち上がり、煙草を吸ってくると納屋の前にいって、突発的に自分で灯油をかぶって火をつけた、と言った。

 

物凄い断末魔が聞こえて火のついた亮介が家に飛び込んできたので風呂場で毛布をかけて何度も消火活動をしたがその甲斐もむなしく、熱を持った化繊が四回も燃え上がってあんな事になってしまったが、あれは君と別れられない事による自殺だよ、と言った。

 

その横で、母親が、私を睨み、人殺しが、と言った。

 

君と別れられない事で亮介は悩んでたからね、だから手切れ金はいくらいるんだと尋ねたんだよ、と言った。

 

はい?

 

なんだろう。この話は。この人たちは一体なにを言っているの?その時のその状況さえ判断がつき兼ねている私のもとへ、もっと意味のわからない話が舞い込んできた。この人達は、どうなってるの?

 

『僕はね、あの子に電話するたびにどうして別れられないんだ、手切れ金がいるならいつでも言えといったのに、あの子は君の存在に怯えてたんだろうね、そんな物は必要ないからって断るんだよ。これには私たちも手を焼いてね…なぁ、母さん』

笑ってやがる。こいつら、何がおかしいんだ。しかし、なるほど、と思った。とても冷静に、あの時亮介が一瞬おかしくなったのはこういう事だったのだろう、と思った。何が正しくて間違いなのかを錯覚させる。その状態を完全に裏返すようなやり方をしてくる。長年、亮介は苦しんだ事だろう。こんな事を繰り返されると、自分が自分ではないような、自分が自分でなくてもまかり通ってしまうような、気が狂ってしまいそうなこのやり方を、何十年と実の親から受けたのだ。

 

ああ、気づいてやれなかった。ああ…。

 

私の上に次から次に言葉が降ってくる。

「あなた、あの子にしつこくしたんでしょ?それこそ死に追いやるほど、しつこくして、それなのによくここに来れたわね?ほんと、どういう教育されてきたのか、親の顔が見てみたい。」

と言った後、笑いながら言ったのだ。

 

一生忘れない。一生。

 

「ああ、あなたあれだっけ?実の親にも捨てられたんだってね、可哀想に。亮介は優しいからそんなあなたを可哀想と思っただけでちっとも愛してなんかなかったのに、それを頭の足りないあなたが、真に受けて。バカバカしい。亮介にあなたと別れるようにお母さんがその子と話をしようか?って聞いたら、あの子、ものすごい勢いでやめてくれってあなたの事をおぞましがってたわよ?

 

あなたの事を興信所に頼んで調べて貰ったら、あなた、義理の父親の子、産んでるらしいじゃないwwあなたあれなの?自分の母親と義理のお父さん、とりあったの?お母さんも大変ねぇ…まぁ淫売の子に育てたのはそのお母さんなんでしょうけど。亮介にその事を伝えたら、傷つけるなって怯えてたわよ?こんな傷つけられたのは初めてだ、もう二度と連絡しないって。

 

だからね、あなたが死ねばよかったのよ。親にも愛されなかったんだし、あなたが、死ねば何の問題もなかったの。さっさと死になさいよ、この売女が!あなたが亮介を追いつめて殺したのよ、この人殺し!あの子はあなたから逃げたかったのよ!」

 

凄い、と思った。あっけにとられた。でも途中から、そうかもしれない、と思ったのも確かだ。性的虐待があって、子どもだけ産ませて自分達の子として育てると取り上げられた。お前は二度と戻ってくるな、と外に放り出された。二度と自分の母親の顔をみるつもりはない。それを、どうだろう。

 

興信所に頼んだ、というだけで亮介は、私の身を案じたかもしれない。あいつらはこわい、と言った。亮介の母が私と話をすると言った時、亮介がやめろと叫んだのは、母に対してであり私に怯えたわけではない、子どもを産んだ事がある、その話を私から亮介には出来なかったままだった、だけど、でも、こんな傷つけ方、あるだろうか。

亮介が傷つけるなと言ったのは、私の事を、であり、私の事を傷つけると俺が傷むからやめてくれないか、であり、もう二度と連絡をしないと言ったのは、私に対してではなく、あなた方に対してだ。

 

でも私はこの時に、もう傷つく場所もない程、傷ついて、何よりも本当に、彼に対し申し訳ない事をした、と思った。こんなにも酷いなんて思わずに

"あなたの親御さんなんだから、きっと話せばわかってくれる"

等と言ってしまった事が彼を深みに嵌めたには、違いなかった。私はその場で崩れて謝り倒した。勿論、彼ら両親へではない。亮介に対してだ。許してほしいと思う。亮介、ごめんね。本当に、私が代わりに死ねばよかった、そう思った。

 

私はなんて事をしてしまったんだろう。私を守ろうとして必死だったのに、私は亮介の何をも、理解していなかった。亮介は知らずにいい事を知って傷つき、知らなければいけない事を知らずにいた。でも、彼は言うだろう。みゆちゃんの事だからきっと何かどうしようもない事情があった。私が彼をそう思うように、彼は必ずそう思ったはずだ。

…と長い時間を経たいまなら言える。この時は、言えなかった。無理だった。もう、なんでも、どうでもよかった。

 

その後、死亡報告書の死因には"熱傷による多臓器不全からの肺水腫"と書かれ、経緯の部分には"古い灯油が入ったままになっていたストーブを収納してある納屋の前で喫煙、その際に漏れた灯油に煙草の火が引火した事故によるもの"と記載された。

 

この時にはもう、私の精神は完全にぶち壊れていて、私は愛する人を理解のなさで死に追いやってしまい、だからその罰で今の死を迫られているのだ、と解釈した。

 

私が彼を、ひどい目にあわせた。

愛する人を、殺してしまった。