聴こえてくるのは、雨の音。

ある意味、避暑地(自分だけ)

キミの話-第二章 vol,14

声が出なかった。目に映る物が目に映っているようでよく解からなかった。あれは何?あれ、誰?何も言わずに一度外に出た。扉を閉める。もう一度入る。何も変わらなかった。人のする事を何か言いたげな、じっとりとした目が6つ、こちらを見ている。

 

透明な、隔てられた、温室のような区切られた空間に近づいて中を見る。私は中を見ただけだ。そこには何の感情もなかった。

「お前のせいだ」

「人殺しが、よくもまぁ…」

「何しに来たんだ」

色々な言葉があった。聞いていたようで何も聞いていなかった。全部通り過ぎた。目の前にあったのは、いつのまにか亮介が取っ払ってしまった後の、あのシャワーカーテンみたいな透明なビニールで区切られた温室と、沢山の機械と機械音、ひとりの人が寝転んでいるとは思えないくらいの厚みをもって、ーーーそれはちょうど二人があおむけに重なって包帯で巻かれたくらいの厚みをもって、そこに横たわっていた。

 

目と唇が見えている。でも、もう、その目が、よく知っているようで、知らない人の目だった。本当に少しだけ、本当に少しだけ眼球が動く。その時に、あぁ…嘘だ…と初めて思った。白目はもう黄色く濁り、瞼がなかった。閉じない瞼が開かれっぱなしでゼラチン質がぶよぶよして目の際に溜まり、縁からこぼれ落ちるかも…と思った。

 

(動かさないで。動かさないで。お願い。そのままで。)

包帯に包まれていたのでよくは解らなかったがきっともう、鼻はなかった。ぱんぱんに腫れた唇は一度破れて固まったのか、真っ黒な血が凝固していて、いつものあの、私の首筋に口づける柔らかな亮介のものではなかった。

 

あれが耳の辺り、あれが髪の毛の辺り、あれが…ゆっくりで目で追うけれどどうしてもその形状と私の知っている人としての形が被さらず、その時にもう、頭の中で、部屋にいた時、一緒に部屋にいた時にテレビの横に置いてある、ぶ厚かった宇宙の本をみて、あの星がこの星座の一部になっていて…と下唇をペロリと舐めて、説明の合間に、ほぇーよく知ってるんだねー!なんて言った私の唇がぽかんとあいていたので、可愛い、可愛いと何かひとつを「でねw」と話すたびに笑いながらキスをした、亮介の動く姿をずっと考えていた。

 

その唇は元はあの形で、亮介を形づけていて…、そこをつないで……頭の中で星座を組むイメージでそれを眺めた。もう…なに??どうしたの?あるのはそんな感情だけで。

 

「昼まではボード使って、指でさして話も出来てたんだけどね。誰かさんのせいでねぇ、こんな事だわ。四回も燃えたんだから。四回も。胸んとこなんて、サッカーのユニフォームのナンバー、皮膚に食い込んじゃって、数字入ってる」

何がおかしいのか半笑い。何が、おかしいの?そう思うけど、途中から、私がおかしいのかも、と思い始めた。だってそうでしょう?何があったら人間がこんな事になるの?何?事故したかもって何?あれ、なんで私、来たんだっけ…。とにかくよく解からなくて、自分の掌をじっと見ていた。指が動く。私の掌はここにある。普通の事が、わからない。

 

「もう、助からないって。そりゃ四回も燃えたんだもん。誰かさんのせいで。あんた、謝んなさいね。謝ったって一生許して貰えないだろうし、私はあんたを一生許さないけど」

この人は一体なにを言っているのだろう。だいたい、あんた、誰?

 

バタバタと人が入ってきて、何かざぁざぁと液体をかけ、包帯で巻く。包帯がすぐに赤や黄色や黒になる。人の脂がしみだして、黄色の、焼き魚から出た汁のような液体が下がる。外には響いてこないけれど、内部では激しくむせているようで、口からゴボリと水が出る。気道確保しますか!?とか、色んな声が。色んな声が。

 

人は熱傷で死に至る。でもそれは、私の想像していた物とは違った。私の想像していた物は、例えば建物が焼けて火事になり、逃げ場を失って一酸化炭素中毒が起きてへたり込み、意識も朦朧としている内に火にまかれて、もう本人も気がつかないうちに、燃えてしまった、助からなかった、そうなる物だと思っていた。

 

事故とはなんだ。事故とはなんなんだ。事故?頭が追い付かなかった。

亮介は生きたまま、火にまかれ、焼かれ、地獄からは逃れたものの、気道や臓器、内部の様々を生焼けにする程に外からあぶられた。掌を片手1パーセント、足裏を片足1パーセントとして、両掌と足の裏合計4%だけが焼けず、残りの亮介の96%は全焼し、中はレア状態、多臓器不全に陥っていた。腎臓が止まったらアウトだ。腎臓が動かなくなったら毒素を外に排出できない。ただでさえ水分が足らない。外からすごい勢いで供給、ではその出口は??

 

後ろで、ごぼごぼと音がする。

 

溺れてしまうだろう。中から、溺れてしまう。溺れてしまう。息を吸うのも忘れるとはあの事だ。息を吸いましょう、息をはきましょう、意識をしないと忘れてしまう。気づくと息が止まっている。だから頭が痛くなる。でももうそれもよくわからなかった。きっと今刺されても何の感覚もないだろう。そう思いながら、自販機で買ったコーヒーの飲み口に力いっぱい親指をあてがって押し付けたら皮膚がさけて血が噴き出したけれど、全く痛みはなく、自分の血がダラダラと混入したコーヒーをガバガバ飲んで部屋に戻った。言葉もなく私をじっとり見る目。言葉以上に、ものすごい悪意を持って、じっとりと私を見る目。もう誰もバタバタしていなかった。もう全てに見放されたのだ。後はもうその時を、待つだけ。

 

ゴボゴボ、溢れかえる。どうしようもなくて、その溢れかえるゴボゴボを髪も肌も脂と血まみれになって、亮介の口から吸い上げて床に吐く。床に吐きだす。頼む、頼むよ、悪い冗談はやめて、悪い冗談はやめよ?東京、かえろうよ……なにしてんのよ、こんなとこで、東京かえろ、迎えに来たんだからさっさとかえろ?そうだ!うちのね、お父さんが亮介のために今日の分のうるるん、録画してくれてんの、だから帰る前にうちのお父さん紹介してもいい、だから早く起きて、起きなさいよ、寝てんじゃないわよ、起きなさい、起きて、とにかく、お願い…

 

時間の感覚がなかった。とにかく、とにかく、何か。どうか。

そうだ。どうしても。これだけはどうしても。そういえば、昼間にはボードを指さして話をしていたと私の耳が聞いていた。一縷の望みだ。届くのかどうかはわからない。伝えなければいけない唯一の事を反対側の、口元が誰からも見えない側の耳の傍、囁いた。

 

『亮介、あなた、パパになるの。私のお腹に、いるのよ、今』

もう私の言葉も途中から嗚咽でしかなかったけれど、どうか届いていてくれると、嬉しい。どうかそうであって欲しい、届いていて欲しいと今でも、願う。

 

動かすと肉が落ち骨がみえてしまうため、支えになった金具と一緒に、巻き付けられた手に私のお腹を押し当てた。同時、もう閉じない目の奥が微かながら揺れ、瞳の淵から水が流れだし、世界が、止まった。

 

13日、昼の出来事だった。