聴こえてくるのは、雨の音。

ある意味、避暑地(自分だけ)

年末のあれやこれ。

今年もいよいよに押し詰まったように感じる日々の中、纏まらず点在した気持ちが胸にあり、箇条書きにて書き留めておきたいと思う。

 

〇ここ数日の野良猫問題から。

我が家には夏の暑い日に保護した黒い猫がいる。商工会に用がありそれらを済ませ、そのまま買い物へ行った先で印鑑を現場に忘れた事に気づき、また来た道を戻る途中で危うく轢きそうになった、夏にはまだ生まれて間もない黒猫だった子を家族として迎え入れた。猫の成長は早いのでおかげ様で元気に育ち、今では子猫とは呼べない程に育ってくれた。

 

その子が家に来てからというもの、何故か行く宛のない猫たちが庭に集まるようになってしまい(それらも全て黒猫で黒い招き猫は商売上縁起が良いとされるし、我が家の実入りは安泰かもね、なんて話でw)ここは田舎の森の中、下手すると猪や熊にやられてしまわないか、寒い冬は越せないのではないか、となり、庭の収納棚の一室を彼らに貸し出した。

 

本当は知らない顔も出来たのだ。現に知らない顔をしている人がいるので彼らは行き場がなく彷徨い、そして増えてしまう。ただ私の性格上、わかっていて知らない顔が出来ない、それだけの話である。彼らはとても我が家の人間に懐いていて、たまに我が家に侵入して悪さもする。彼らの餌はきちんと与えてあるのに好みの匂いがするのか先日は、うちの金魚の餌と亀の餌を食い破り、私が「あ!」というと申し訳なさそうな顔をして逃げていく……のかと思いきやその袋を口に咥え、収納棚へ戻っていった。自分の家がそこだ、と思っている事が可愛らしくもあり、少し悲しくもなった。

 

生きていく上で生まれつく場所という物がある。その星の下、なんて言い方をする。しかし、これが定めだ。皆が皆、同じ星の下に生まれてしまうと動きも考えも何もかもが一緒になってしまい、ロボットのような世界になってしまう。

 

わが猫は彼らより少しタイミングが早かっただけで家の中で暮らせる。彼らは少し遅かっただけで自分の命を自分で繋がねばならない。ほんの小さなズレがどうしようもない差をうむ。平等などはないのだ。うちの猫の事を彼らはどう感じているのかはしらないが、顔を合わせると喧嘩するでも恨むでもなく、お前も食べれば?のように餌箱の前を譲ったりする。平等を考えるのであれば、全部飼ってやるべきなんだろうし、それが出来ないのに平等を求めるならばうちの猫を野良に戻すしかない。平等というのはそうした物だ。出来る限り、差が出ないよう配慮はしている物の、どうしても「ではどうぞ」と家へ通してやる事が出来ない。彼らは去勢されてはいない、うちの猫は女の子であるしその他の病気も気にかかる、それにうちには、鳥がいる。病気や去勢の云々は病院へ連れていけば何とかなる物の、鳥、こればかりは今までの環境が物を言う。

 

うちの猫は鳥に悪さをしない。これは仲間だ、と考えている。でも庭の彼らにとって、それは餌だ。自然で生きてきたのだからそこは本能が勝る。何か良い方法はない物かといつも考えている。知らない顔が出来れば良かったのだが、この時だけは自分の性格や考え方を恨む。不平等を生み出してしまう自分も無力だが、平等をうもうとする側には大きな責任が出来る。悩むところである。

 

多くの人がこの"悩む"という感情に度々憑りつかれるが、悩みというのは解決していかねば悩みとは呼ばず、私は立ち止まるタイプでも、悩む事が好きなタイプでもないので

 

「ではどうするべきか」が殆どを占める。そう。私は、悩むのが性に合わないのである。いつまでも同じ場所から動かないで愚痴を吐き続ける人は動かす気がない(むしろ好きなのだろう)と感じる部分もあるのでやはり、常にどうすべきか、である。彼らがこの先、困らない方法を探している。

 

改めて思うが、平和や平等は生きる人間が、できる人間が、作っていくものであり初めから用意されているような物ではないのだ。私にできる事はなんだろう。

 

〇もう一つの仕事について

 

私には家業がある。主人の始めた事だとはいえ、当時は私は私でやりたい事もあった。にもかかわらずどうしても片方が開業するとなると自分のやりたい事よりもそちらに私の体や頭を貸す事が最優先となるし、そこへ来て女性は家事も育児もある。その件に関してはこれと言って話し合いはなかった物の、お互いに結婚して10年が目途だとほんやりと考えていたし、その間にはとんでもなく色々があって現在があり、漸く落ち着きつつあるので今は意外と自由になりつつある。

 

独身時代からダブルワークどころかトリプルワークは当たり前だったので、そうも苦はないのだが、ここへ来て急に単発ではあるが以前の仕事の関係でお力添えさせて頂く形となり、力を貸すと言った以上は報酬の値に関係なくきちんとさせて頂こうと思っているのだが(今後も度々お願いできるかどうか検討して欲しいとの事であった。勿論返答の権限はこちらにあるので、そこはその都度状態を見て、との返事をしてある)なんせ、久しぶりに、誰かに雇用される立場となる。

 

その感覚がえらく久しぶりで、楽しみな反面、緊張もしている。以前関係していたというだけで以前の就労先ではない為、仕事の仕方も聞きながらではないと進まないであろうし、ダメ出しは多くなるであろうと予想、答えようとして頑張っているのにダメ出しが多くなってくると人は、言われた事だけをこなせばよい、自分は機械のような物だ、と思い始める。これが社会で働く、組織で働く事の面白味のなさであり、嫌だな…になるんだろうな、と思う。

 

こちらはもう以前とは違い雇用する立場にあるので、これはとても良い勉強だと思う。

何をどうしてどう感じる事により、働く事が辛くなったり面白さがない、と感じるのか。これは雇用する側が解っていて当然の事であると思う。うちのやり方は、案はどんどん出せ、したい事をしろ、仕事さえあがれば問題はないので出たい時だけ出てくれば良い、しかしやると決めた事があるならやり通せ、一員だなんて思うな、自分が一人になっても経営していける、それくらいの気持ちでやってくれ、と言ってあるので、割と何も言わなくてもぐんぐん伸びて、上だ下だ等はなく、スタッフの子がこちらの意見を

「なんすかwどこのぺぇぺぇっすかww」

と突っ込んできたりする位、立場は対等なものである。

 

台風が来ようが何しようがしている事が楽しいらしく、こっちが、早く帰りなさい、危ないわよ、と言わないと腰もあげない。色々が作れるようになったら、直接に仕事を取っている事もあり、良かったですかね?なんていう相談は入るものの、一から十まで全部自分でできる力があっての事で責任もってこなすのであればそれは、こちらが口出しする様な事でもない。計上上の色々はあるので材料費だけ差し引いてくれればそれ以外の工賃もすべてそちらの取り分で問題ない、としているので、自分達が思うように、気ままにやっている。

 

雇用して欲しいなんていう話がありましたが蹴りました、なんていう、いつの間に雇用担当になったんだ!みたいな事を言ったりもするので面白い。何故蹴ったのかを聞くと「あまりに従順だから」等と言ったりするww

 

組織で働いてきた方は与えられた仕事をこなし、こなしてもダメ出しされて、それを提出したら褒めても貰えず、当たり前だ、こっちが給与やってんだから、とされているので、その癖がついてしまっている。もっと業務上なら意見を言ってくれていいのだし、笑ったりはしないよ?それが良い物を生み出すかもしれないじゃない?としながら生きていく弁証法のプロダクトとは訳が違うらしい。

 

その、多くの人が抱く感覚を、私は少し、忘れかけている。

絶対的に「ああしてほしい」「こうして貰えないか」の要望を『あーくそうるせえな』と思ってしまう部分があるんだろうなぁ~なんて思いながら、でも、一方ではそれを有難い事だとも感じている。

 

はっきり言って経営者にはそれがない。指南してくれる人間がいないのだ。これと決めたらその方向で行くしかなく、頭打ちしてもこちらの責任だし、スタッフが困窮する事を回避して決断と判断はすべて己でしなければいけない、という恐ろしさがある。好きな事を仕事にできていいですね、等と言われるが、ある意味では、だめだしを食らい褒められなくても、他人の生活の責任までをも受け持たなくてもよいし、やれと言われた事を期日内にしておけばそれが良かろうが悪かろうが直接自身に響くものではない、組織にはそういった利点もある。

 

要は、どこを見るか、だ。ダメ出しをくそうるせぇな、と感じても、すべき事はきちんとやって、納期内に出せばお金は入る。これはとても実は有難い事なんだなぁ、と今の立場になって思う。責任の度合いが違う事を考えれば、クソうるささも楽しみに感じてならない。久しぶりの仕事だ。良い仕事が出来ればな、と思います。

 

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気づけば明日はクリスマスイヴ🎄

雪が降らずで残念だけど、良い夢が降り積もるといいなぁと思いながら、今年の残りを過ごします☻☺