聴こえてくるのは、雨の音。

ある意味、避暑地(自分だけ)

キミの話-第四章 vol,3

圭吾はそんな事を考えても時間は巻き戻らないし、いなくなった者は戻ってこないからもう余計な事は考えない方がよいと言った。それはそうだろう。もしその出来事が、私の考えるように事故でも自殺でもないとしたらその責任はどこにあるか問われる事になる。そうなった場合、圭吾にとっては血族の犯した罪になってしまう。私自身も圭吾にはこれ以上迷惑をかけられなかった。しかし、圭吾が許そうと許さなかろうと、事実は事実だ。正されるべきが沢山ある。あの話には必ず、裏がある。

 

いつか会えたらいい、亮介に。墓にも参って、手を合わせたい。そう思いながら月日が過ぎた。はっきりしない事が多かった。長女が生まれてから次女が生まれるまでの三年間、その間に私の耳に届いたのは、足跡のついた畳の処分をした際、立ち会ったのは血族の中の警察関係者の元で行われたらしいという事。だとしたら何かを解った上での事だろう。表向きの死亡報告書の作成、しかし実際には自殺だった、という形で終わらせていた事になる。スマホもなかった時代の事、こんな事は実はよくある事だったのかもしれない。葬られたって物理的な物が残らない限りわからない。今ならばまだスマホがある、クラウドがある、SNSがある。隠された悪が正される事もそうも時間はかからないだろう。隠そうと思えばなんでも隠せた時代。

 

何故、親族以外の誰にも触れられる事のないうちに、その畳を処分したのか。それは本当に本人の足跡だったのか。それとも別の人間の足跡だったからか。ではあの両親の足の裏にあったやけどはどうしてだ。本当に本人についた火を消そうとして負った傷なのか。家の血筋にいた警察官がたちあったというのは本当か。だとしたら、完全にもみ消しだ。田舎の事だ。簡単な事だったかもしれない。

 

遠藤さんが以前に話していた"どうやって亮介を東京から動かしたか"そこも気にかかる。本当に両親が迎えに来たのか。その際に何が亮介を実家に帰る為に動かしたのか。私の事で彼を脅したのだろうか。それとも、第三者に偽りを吐かしたか。例えば、親族が事故に遭った、だとか。下手したら亮介自身が脅されて、力ずくで、無理やりに連れていかれたという事も考えられる。

 

私が入れた日程の留守電を聞いたのは本人なのか、それとも別の誰かなのか。外に出ていて簡単に連絡を寄こさないと解っていてその日に決行された事なのか。自殺をするような人間が自分から自分宛に服を購入して、後日戻る予定だった家に送るものなのか。

 

敷地の納屋は燃え尽きて、地面は真っ黒になっていた。毎日毎日、その事ばかりを考えた。亮介が話せるなら教えて欲しい。あの時、何があったのか。でも。もしその話に第三者が介入していたとしたら、それは何故で、誰に頼まれて?…結局のところ、行きつくところは、あの二人しかいない。

 

自分が子供を持ってから解った事がある。例えば自分の子とお友達の間に何か問題が起こってやりあったとしても、自分の子と遊んでくれる子の事だ。一方的に傷つけてこない限りはやっぱりその子も可愛い。相手の子の親を知らなくても、自分の子を可愛いと思うように、その子の事も可愛く感じる。子供同士が泣く程にやりあっても、きちんと話を聞いて、何が原因だったかを尋ね、例え相手の子が悪かったとしてもそちらばかりを責めようとは思えない。子を可愛がる、親になるとはそういう事だ。

 

産む方は命をかけてその子を産む。どの人にも産まれた日があり、先でどれだけ悪い人間になったとしても、その時にはどの人間も、幸せになってくれればいいと願われるはずだ。この子が不幸になればいい、そんな風に思う親はいない。望んでいない出産だったとしても、生み出した瞬間に、私の人生が狂ったのはお前のせいなんだからお前は死ぬほど苦しめ、だなんて思う親がいるとすれば、それは鬼だ。もはや人の子に非ず。

 

でも、あの二人にはそれは見受けられなかった。愛のような物を見受ける事が出来なかった。自分の子を駒のように扱い、その者が愛している者までもをボロボロにした。亮介がいなくなって私を更に傷つけた、その時点であの二人には、亮介に対する愛がなかった。直接に手を下したなんて恐ろしい事は考えたくはなかったが、それでも結局、第三者に依頼したとて、愛情が足りなかった事になんら変わりないではないか…。

 

愛がなかった、という事は間違いがない。息子が自分達親の思ったように生きてくれればそれこそが幸せだ、自分達は何も間違っていないのだから言う事を聞くべきだ、それは子を可愛がるという事とは違う。亮介の両親が愛したのは彼自身ではなく、自分だ。自分達夫婦だけだ。

 

次女が生まれてくるまでの三年の間、長女の少し変わった行動や態度が気になった。話すようになるまでがとても速かった。全く睡眠をとる気配もなかったし、二歳の頃には朝起きたら天道虫のビーズが、綺麗にぴっちり、測られたかのように等間隔にテーブルの四辺に並べられていた。普通なら、あの子どこかおかしいのかも!と親はパニックになってしまうかもしれない。特に第一子。比べる物がない。私は全く焦らなかった。どこかにおかしな節があったとしても自分の子だ。生きていればよい、と思った。

 

亮介の親のように、優れた大学に入れなければ、よい会社に入れなければ幸せだとは呼べないだなんて思わなかったし、例えそれが叶ったとしても彼のように心を壊したりしていたらそれは長くは続かない。どのように生まれても、どこに生まれついても幸せは自分が掴んでいく物だ。自身が納得のいく生き方が出来ればそれ程に幸せな事はない。身を寄せる場所はこの広い世界のどこにだってある。私が亮介を、亮介が私を受け入れたように、命に代えても守りたいもの、そう思ってくれる人が私達夫婦以外にもいつか現れる。そういう人がこの世にいる。だから健常でもそうでなくても、全く困らなかったし、自分の意思を受け継いだ可愛い子には違いなかった。

 

長女に発達の障害があると診断が下りたのは次女が生まれてからだった。

 

次女が私のお腹にやってくるまでにも色々と不思議な事があった。亮介の事を考えていても埒が明かない、もう忘れるべきかも…そう思うたびに不思議だと思える事が起きた。

 

例えば、主人が今働いている場所を辞めようかなと言った時。いつか独立したいと言っていた人の事だ。私はカレンダーの前に立って眺めていた。そうすると風も吹いていない場所にかけてあった目の前のカレンダーがペラリペラリめくれた。その場所ばかりがめくれる。

「二月の内に」

『なんで?』

カレンダーが勝手にめくられて二月ばかりを見せるから、とは言えなかった。とにかく二月中に、そう言った。職場は一ヶ月分が翌月に締められ更にその翌月に支払われる"翌々月払い"。だから実際には辞めると言うと二ヶ月分が一気に支払われる事となる。二月には辞めますと告げて二ヶ月分が振り込まれてから数日後、会社の会計をしていた人間が全ての金を持って居なくなった。勿論、他の人たちに給与は支払われなかった。だから持ち逃げした人間とうちの主人が裏で共謀しているのだろう、等という話になり、とても疑われた。カレンダーがめくれたからだ、とは、言えなかった。

 

会社を辞めて独立をするのはいいが、あの仕事は何かを仕入れて売るわけではないので制作に時間がかかる。バイトにでも出向ければいいがそれをすると物が作れない。家賃を払う事で一杯一杯になってしまった。私が働きに行ければよかったが、長女がなかなか難しい子でもあったし預かってくれる先がなかった。贅沢をしなくても家計は冷え込んで借金ばかりが増えた。

 

一度ばかり、主人には死んでも内緒だが、私は以前のまだやり取りのあった中でも紳士的だった人に二人ほど連絡して当たった。宜しくない事だが手っ取り早くお金を作って

"前の派遣先に請求するのを忘れていたのを思い出して。お金ちょっとだけど出来たよ"と家に入れた。自分達が幸せならばそれでいい。大した事はなかった。私の城だ。一円も入れずにそれでもご飯を食べさせて頂けている。たまにはお返しをしなければ、そう思っていた。私の事で誰かに迷惑かけるなんて事がそもそも納得がいっていなかった。のんびり生きてもいいよ、そんな日を用意された事がないのである。何かがあれば、体を壊せば働けなくなり、明日ご飯が食べられない、ずっとそんな人生だった。誰かに優しくされる事に慣れてはいなかったし、今だってそれはそうだ。慣れてはいない。

 

大切にされてきた人はきっと、大切にされる事が当たり前で、そんな苦労をしないでも何でも手に入ったであろうが私は羽根を休める場所を持ち合わせた人間ではなかった。自分の人生に何の保証も頼れる場所もなかった。羽ばたく羽根の動きを止めると、即座に落ちる。

 

「これ以上、借金が増えるようなら、お前にも迷惑をかけるから籍だけは抜いた方がいいかもしれない」

ある日、主人がそう言った。私は良いとしても、部屋の隅で屈託なく遊ぶ長女の姿が悲しかった。困ったのなら実家を頼ればいいのでは?それも主人は断った。親に迷惑をかけるわけにはいかないらしかった。男が決めた事だ。それも仕方がないかもね、そんな風に、私は言われる事に頷くだけだった。

 

ある日、主人が電話してきた。後ろから車を当てられたという。相手は逃げたらしかった。車の修理代も出せない。最低だった。ついてない。もう終わり、そう思っていたところ、主人がとりあえずコンビニに車を移動させてもう一度連絡すると言った。しばらく連絡がこなかった。長女が全く睡眠をとらない事もあって、そんな時なのに私は限界で待っている間に眠ってしまった。亮介が夢に現れた。

(亮介…ねえ、あなた…殺されたの?)

(みゆちゃん、大丈夫?疲れてない?)

(亮介、どうなの?あの日、何があったの?)

(みゆちゃんが元気じゃないと俺も楽しくない)

(私は元気。気にしないで。元気だから!大丈夫だから。それより…)

(みゆちゃん、当たり年だよw)

(何それ)

(色々、当たるって事)

(じゃあ私の考えてる事は?)

亮介は笑いながら吸ってる煙草を指ではじいて投げた。

 

電話が鳴った。

「コンビニに移動したら、コンビニの配送に来た車が俺の車の上に乗った…ぐしゃ…」

『はい?』

「ぐしゃんなった」

完全に終わりだ…そう思ったら

『聞け。相手はコンビニで、そうなったのはこっちのミスだから全額保証するって言ってきた。150万~200万で手を打ってくれってよ』

ほんとなの…。驚いた。

「ねぇ。当たり年って知ってる?何のことかわかる?」

『何それ』

「色々当たるらしいよ?その足でナンバーズでも買ってみたら?」

そう促すと本当に買っていたらしく、それが50万をひきあてた。色々当たる、と亮介は言った。私の読みもきっと当たっているはずだ。亮介は殺された。私に安定がないとこの日がこない。彼はそれを望んでいたはずだ。私が誰かにこの話をする、この日を。

キミの話-第四章 vol,2

長女が生まれて初めて迎える新年の事だ。主人の実家に初孫のお披露目に行った。雪がよく積もる地域で東京から訪れると震えあがるような寒さだ。あれから何年たっても、こんな時期に来るんじゃなかったと後悔するような、そんな寒さがある。

 

新年を迎える前に入り、数日を過ごして東京に帰る。戻ってきた事を色んな家に伝えに行った。田舎の家は面白いもので、戻ってきました、と伝えるとすぐに、あがねんぇあがんねぇ、と中に通す。そのまま居間に行くのかと思いきや、どの家に立ち寄っても仏間へ先に顔を出す。よく存じ上げない方々だけれど、私も同じく、手を合わせる。

 

"生前は主人がお世話になったようで"

そんな感じだ。届くか届かぬのかはわからないが、届く声があるのなら届いて欲しい。

あるお宅に立ち寄った時の事だった。主人がこそこそと言う。

「お前が夢でみた爺さんって、あの爺さんじゃなかったか?」

仏間にずらりかけられている遺影を眺める。

「!」

あの人だ。間違いない。あの人ではないか!お久しぶりです!驚いた。そこにはその顔があった。

 

『なんであの人の時計持ってたの?』

主人に聞くと、自分の家が山のてっぺんだったので学校が終わったら山のふもとのその家で待たせて頂いていて、親よりも沢山同じ時間を過ごした人だ、と言った。誰かに大切にされる、羨ましい話だった。私にはそうした事は無縁だ。ありがとう、と頭を下げた。帰ります、と言って立ち上がり振り向いた時に、雪がやんだら押すかもしれない車から降ろしたベビーカーがその家の土間に立てかけてあった。青かった。青い!

腰を抜かしそうだった。青いのだ。あの日の夢でも青かった。今は現実に青い。

 

帰りの車の中で「うちのベビーカーは青だね!青いね!」とずっと口にした。それがなんだ、と言った感じの主人。色が、知らぬ間に、戻り始めていた。世界の色を失ってから3年目の春の事。沢山の色はまだ識別がつかなかったけれど、そのベビーカーは購入した時よりも私の目に、確かに青かった。嬉しかった。

 

その年、主人の母は指に包帯を巻いていた。どうしたのかを聞いたら、たいした事はないが台所に立っていてやけどをしたんだという。水ぶくれが出来ていて潰れて膿んだら大変だから、そう言った。外が寒いから包帯を外しておいた方が蒸れずに済みそうなのに、と思った。乾燥させないように、油でも塗って風通しのよい方がいいですよ、と言ったら、よく知っている、看護婦さんみたいだ、と言われた。あなたよりも重体の患者を相手にしたからだ、とぽっと思った。だからどうだという事はない。ただ知っている、それだけ。

 

年があけて里帰りしてくる人も増えて、一度立ち寄ったお宅にもまた顔を出した。上のお姉ちゃんが、お兄ちゃんが帰ってきている、そうした連絡がくるとすぐにまた挨拶に行く。戻ったのにすぐに友達と初詣に行こうとするお姉さんは正月にふさわしい着物を来て、お客さんだから、と仕方なくその場に居座った。

(あんたらとりあえず仏壇に手ぇあわせてきねぇ。どっかに出かけるんじゃったらそれからじゃで)

家の人はそう言った。お姉さんはお友達を待たせているのか、私の前で正座して早く出かけたいというように体を捻った。私は手をあわしつつ、またあの日のように相手の足の先を見つ………

 

(これだ!!!)

 

そう思った。あの日、何故、目の前に並んでいた亮介の親が足を崩していたのか。父親の方の靴下の先は湿っていたし、母親の方の足袋の先は畳の色が落ちたのか青いような黄色いような蛍光に近い緑色だった。増改築されて新しくなったその家の仏間の畳はまだまだ青々とした香りを漂わせていたが、お姉さんの足袋の裏は美しいままだった。

 

主人の母が、やけどが膿んだら困るけぇ、と言ったのだ。あれは、あの緑はどこかで見た緑。亮介の体だ。亮介の体の皮膚のなくなった部分はそれでも新しく再生をしようとし、白いブヨブヨとした何かをつけた部分があって、同じように黄色や蛍光の緑色のような場所もあった。二人は足の裏をやけどしていたのだ。だから正座できなかった。

 

本人の足の裏のやけどは認められていない。免れた1%ずつに入った。両足の裏で2%。焼けずに残った部分だった。本人の足跡が畳についていたとしたら、靴のままであろうとわざわざ玄関で靴を脱いで仏間にマッチを取りに上がったのであろうと、火をつけた場所、そこが地面で周りにもオイルがあった場合、地面だって燃えているはずだ。何より畳に足跡がつく程本人の足はその液体を吸っている。

 

圭吾に電話した。覚えているか、と聞いた。新年の挨拶の方がついでになってしまうような始末だった。圭吾はおじさんやおばさんは消すときにやけどしたから歩きづらいと言っていた、という事は覚えていた。足の裏は地面に触れる。その地面に何もなければ空気が通らなくなる。だからやけどはしないはずだ。消す時に足も使ったのか?火にまかれる人間を蹴り飛ばしでもしたのだろうか。それならば足は空を蹴るのであり得なくもない。二人の足がもし、そのオイルに初めからまみれていたとしたら?

 

疑念がずっと消えない。何故、畳を隠すように処分したのか。その時の事を想像すると恐ろしくて今になっても震えが出る。あんなに酷い人間でも、そうでなければいい、と願う。そうでなければいい。あなた達が亮介を愛さなければ、誰が愛してやるのだ。私が急に登場したから、私に息子を取られた気分になって憎たらしくて私を罵った、そうであって欲しい。そうであって欲しい。第三者に依頼した、それでもいい。もう戻ってこないのであればそれでもいい。でも、きっと、そうじゃない。

 

何故か。

 

私の願いはいつも、叶わないし、届かないからだ。

キミの話-第四章 vol,1

私たちは結婚した。周りは愛されて結婚するなら幸せだよ、と言った。結婚は愛し合ってする物だ、と言うと、もう誰も二度と愛せない体質のくせに?と友達は笑った。そうだろう。私は世の中の上から下までを眺め過ぎた。でもその感情があまり上下しない状態はフラットで楽だった。めちゃくちゃに愛があったとしたら、私のような人間は相手の足を引っ張ってしまうだろう。いつでもそうだ。自分の背景もそうだ、気持ちの方だってきっと何かがあれば

(私の事を愛していると言ったじゃない。あの言葉は嘘だったの?)

そう言わなければならない。だから丁度これで良かった。もう愛は充分に知っていたし、恋をする程に熱くもない。冷め切ってしまっていた。後はこんな私に対し、相手がどこまで持つかだ。私は亮介と過ごした時ほども笑わなかったし、話し方もキャッキャとした物でもなくなった。燃え尽きた感じしかなかった。

 

新宿に入力のバイトを見つけた。結婚しても若い二人の事だ。主人は職人として人に使われていたし、私は私で一人でいると色々と考えてしまうので外に働きに出たかった。自分で自分の好きな仕事が選べる。たったそれだけが一年の事を考えると凄い事だった。会社に入社しようとは思わなかったけれど、自分の得意な場所を生かせたらそれで良かった。だからと言って寝技を必要とするような場所には戻れないし、戻りたくない。

 

仕事は退屈だった。同年代がいても男ばかりで、あの仕事は他人と話さなくてもいいからやっている、という人も多く、行って、仕事して、帰るだけ。前職の本社の人間から何度か、社会復帰したなら戻ってくればいいのに、と言われた。私がいなくなったのは体を壊したからだ、と周りには話してあった。体じゃない、壊したのは心だ。あの世界は移り変わりが早い。日夜新しいプログラムが出る。二年近くもブランクがあればもう私の力なんて必要としない世界になっているだろう。私がいなくなったって代わりはいる、どの世界にも。なんなら新しい力の方が私なんかよりも充分、即戦力になるかもしれない。

 

"あなたがいないと華がなくて、笑いがなくて面白くないよ"前職の同僚はそう言った。私は現場の華だったらしい。技術職は男の方が多い。どんな人間でも華になれる。例え毒があっても。それでも私は断った。理由があった。新宿の地下に潜っている時に課長が来たのだ。それから言った。

『ダブルワークは禁止のはずがそうか…お前はいっつも疲れてたけどそうか…あの頃もこういうところで働いていたか。それっぽい色気はあると思ってたんだよね。会社の人間には言わないからもう業界に戻ってくんなよ。やる事やったなんて言われたらこっちの椅子が危うくなるんだから』

皆さん、某会社の役職は最低です。そういう事もあって私は、今の仕事は今の仕事で楽しいから、と言って断った。

 

退屈な入力バイトの先で、話もしたような事のない男性に呼び止められた。なんですか?と言うと"昔、風俗にいたんだって?"と言われた。人違いじゃないですか?と言うと、ビルの入り口の下に男が立っていて、私がビルに入って行くのをみたがここは待機事務所があるんですか?と尋ねたらしい。最悪だ。新宿は危険。顔が売れれば売れる程危険だった。そういう事もあるので、もし簡単なお小遣い稼ぎを必要とする子がいてその世界に行こうとお考えならばやめておいた方がいい。何の覚悟もなく入るような場所じゃない。あなたの為に泣く人がいないかどうか、よくよく考えるべきだ。それならばまだダブルワーク禁止の会社で働いていても、空き時間に派遣のバイトを入れた方がまだマシ。それはあなたの地位や人生を揺るがさない。誰かを泣かせると、自分はその倍泣く事になる、という事。

 

結局そうなると『寝れば黙っておいてくれる?』となる。私は結婚したのでその方法はやめるべきがベストだろう。いつまでも引きずるほど馬鹿じゃない。家に帰ってその事を主人の話した。理由があってその生活だった、と解っている相手がいるのは心強い。誰にも言えない、そうした裏を抱えるのは生きていく上で厳しくなる。私は死ぬ為にそれをしていたし、それらも全て話した上の事だったので、相手の気持ちは置いておいても私は助かった。酷いかと言われれば、それも込みで結婚したのだから相手にもそれなりの覚悟はあっただろう。主人はとても軽く、やめればいんじゃね?と言った。やめるか!そーだねw主人の何も考えていないような軽い雰囲気は私を支えた。

 

数日とても熱っぽい日々が続いた。あの頃、酒や薬にズブズブだったから体が普通に働かない日の方が多かったし、それは仕方がない事だと諦めた。それにしても誰かの奥さんになったのに明日、死にました、では、主人を苦しめる。遅出の仕事の前に病院に行った。妊娠していた。忽ち怖くなった。主人の子には違いない。違いはないけれど怖くなった。母になる自信がなかった。先日まで生きる価値もなかったのだ。妊娠を伝えようとすると車が突っ込んできて、とか、突然洪水が起きて、とか、何か悪い事があってまた独りになるのではないか、誰かを意図せず殺してしまうのではないか、と恐ろしかった。家族が増えるのに私は全く喜ばなかった。PTSD症状だったと言うのは後の診察でわかった。何かを変える必要があった。誰かに先に話してしまえば、同じ時を繰り返さなくて済むのではないか、そう思った。だから誰かに先に伝える必要があった。

 

駅のホームからマサトに電話した。

『おぅ生きてたか!元気してんのか?』

あなたの3年後の花嫁は3年を待たずに結婚しました。それには理由がありました。誰にも言えない理由がありました。横道に逸れて私が勝手に繰り広げた先に本当の愛があり、その愛がなくなって私は傷つけ、傷つけられて、もう戻れない場所にいます。目の前の線路に飛び込んだら全部終われるのに今の私にはそれが出来ません、どうしようもないです、色々を恐れてしまって。

 

全部全部吐き出してやりたかった。

 

「うん。元気。私ね、結婚したの。今日、お腹に赤ちゃんいるってお医者さんで言われたんだ~」

 

出来る限り平気なフリをした。亮介が怒るだろう。亮介が怒った相手だ。亮介の恋敵。

"みゆちゃんがそんなに好きな人だったんだから俺なんかよりも断然カッコよくて、断然いい人なんだろうね、めちゃくちゃ妬ける!もお頭おかしくなりそ!"

亮介はたまに持ち上がるマサトの名前を聞くと、そう言っていた。

 

『……そうか、それは良かった。おめでとう。そんな事は俺に言わずに腹の子の父親に言えwもう俺もお前の相手せずに済む。これで二度と話す事はないなw』

無事、私は父親より先に誰かに告げた。隕石は落ちてこなかったし、私を誰もホームから突き落とさなかった。ホッとした。

 

「そうねw長い事ありがとう。」

『おう、二度と電話してくんな?喧嘩しました、とか、離婚しました、とか、そういうの、いらねーからw』

「なりませんwどうかお元気で。」

『おぉ、幸せにな』

「ありがとう。じゃあ」

『おぉ。あの世でな』

 

あの世で会うのはきっと、あなたではなく亮介だろう。自分が気づかないだけで色々な人に愛されていたのかもしれない。人の心なんて誰もがわかったようなフリをして、これっぽっちもわかっていない、だから想像力を必要とする。

 

こうだろうか、ああだろうか、想像する事が思いやりになる。この言葉だって表面だけ受け取れば、私を嫌いで、それなのに私が振り回して俺はいい迷惑だった、そう聞こえるけれど、そうしなければいけない、も、そこにあるのかもしれない、そうやって考える事が"誰も傷つかない"という事だと知った。苦しんだ時間は無駄ではなかった。亮介は私に色々を教えたし、辛い季節にもそれなりの学びがあったには違いない。何より、私は、亮介のような誠実な人間に愛されて守られた。私はそれを穢すわけにはいかなかった。それは自分で自分を穢さない、とイコールだ。私の中に穢されてはいけない誠実な命がある。いなくなった命と、これから生まれてくる命。怖くて逃げだしそうな中でも私は笑っているべきだ。逃げてはいけない。

 

戻ってから主人に、妊娠してました、と告げた。

「えー!俺、親父になるの?今のタイミング!なんで今!金かかるぞぉー…?どうしようか」

そんな事を言いながら嬉しそうだった。金なんかなんとでもなるでしょ。飯さえ食えればそれでいい。金で買えるもんなんて、たいしたもん、この世界にはないんだから。

 

妊娠中は安定せず、何度も夜に病院の扉を叩くことになってしまったり、途中に主人は誰かと恋に落ちたりと色々があったけれど、私はその命を恐れながら守りきって翌年の夏前に母親になった。

キミの話-第三章 vol,13

あの時は自分の意思と反して色々が進み、あれよあれよという間に身の周りが片付いて固まった。まさしく、夢のような。

 

約束通り、私の代わりにバイト先に話に行くと言い出した。とても心配になったのは私の前に何人かが辞めたいと申し出た後に血まみれになって事務所に戻った事だった。ある子はやってもいない罪を着せられ弁償代金の請求を実家にまで送られた、辞めたいのに辞めさせて貰えないと怯えていた。今回の話は腕か足の二,三本は覚悟するべきであなたは仕事があるのだからやっぱり私が、いや俺が。じゃあ私が車から見張っておくのでSOSがあったら大至急、そんな状況で話をしに行った。

 

あまり顔を出さないそこのトップのいる日で、これはヤバい!一番ヤバそうな人!とも思ったが後にも引けず、会わせたい人がいる、と言って呼び出し、近くのコンビニの駐車場で話し込む二人を見守った。一度トップが事務所に戻ってまた降りてきて、何かを受け取り解散。何もなかった。

 

「どうだった……?」

『うん、どうもこうも。結構いい人だったw』

「いい人なわけないでしょー!?外道!外道だよアレ!」

『あー、これ預かったよ。紹介料6人分未払いだったからって。後、何とかさんに宜しくって』

「!。わかった。さっさと車、出して」

横浜のあの人だ。助かった。あの人絶対すごい人だったんだろうと思う。無傷でなんて突破できないような場所だったのに。可愛がって頂いた。もし話がもめたら、関係ない人間を巻き込むわけにはいかないので、一年前の生活に戻る事も覚悟していた。

"そこへ戻るのでどうかご勘弁願えませんか?"

そういうつもりだった。封筒の中をみたらきっかり60万入っていた。紹介した方々には申し訳なかったが、楽な仕事というのは世の中にはない。何かしらきちっと落とし前をつけられるようにその相場は決まっている。

 

そんなこんなで、この後の彼の活躍により、私のドクズでハードでヘビーな一年間は幕を閉じた。私だけの力だとこんなにうまく回っていないはずだ。殴られて蹴られてなんぼだった人生、本気で東京湾地底でも何の不思議もない。10人紹介し、40万は先に頂いたので残り60万、焼肉奢る!そう言って二人で焼肉を食べた。

 

しかし、彼は色んな現場にやってきた。友達と遊んでいるというとそこへ来て、私がその頃なんとなく付き合っていた彼氏の椅子にほぼ膝乗りの状態でくつろいでいると

『おい、何やってんだ。帰るぞ?』

と言いに来ては、誰?となり

『俺、こいつと結婚するんでー。ではー』

と私の腕を引っ張って、全ての悪い縁を断ち切るが如く、日夜動いた。

「なんでよ、何のつもりなのよ。なんでつきまとうの!?付き合ってもないのに、何様なのよ」

自分のペースを乱されて私が怒ると

『自分でもわかんない。けど放っておくわけにはいかない。帰るぞ』

といつも言うのであった。あんまりに強引なので、引っ張られるままだったけれど、よくよく考えるとその生活はよくない、と一掃してくれるような物だったには違いない。私は何かしら守られていた。

 

GWには実家に帰るというので、ああそうなの、何をして過ごそうかなーなんて思っていたら、自分がどれだけ本気なのかを証明したい、自分に嘘はないという事を理解して欲しい、だから一緒に帰らないか?と誘われた。

 

誰も彼も嘘をつく。私を独りになんかしないと言った言葉も嘘だった。

"自分は死なないからみゆちゃんは泣かないで済む"映画を観て泣いている私に言ったのだ。嘘ばかりだ。

 

だから間髪入れずに、嫌です!と即答した。付き合ってもいない子を東京から連れて帰って結婚話なんかが出たら厄介だから行きません、と断った。そんな話は阻止したかった。二年前に傷ついたばかりだ。塞ぎたい傷をわざわざまた切って広げるつもりなのかこの人でなしが!とさえ思った。

 

親には友達だと紹介するので一緒に行こう、たまには気晴らしに、そう言って実家に連れていかれた。

 

東京から岡山までは車でいった。途中の出来事である。何かが車の横をかすめた。白いスゥーっとした、何か。

「さっき何かいたよね?」

『え、運転してるから見えなかった。何かって何?』

「わかんない…白いやつ…」

暫くしてから

『あ!え?あれの事?あれなに?』

と言い出した。何かよく解からないものが車のそばを走っていて、それはハッキリ二人ともが見たのでよく覚えている。その何かが車のボンネットに一度のり、それからガラスを添うように這って車の上に登って行った。

『車の上にいるねー…ライターで焙ってみる?』

「やめときなよ…火あぶりとか可哀……あああああああ!」

『?』

「……いや、なんでもない…彼かもね…」

『反対なのかなw俺らが付き合うのw』

……逆だ。この展開はまずい気がする。まずいと思った。

 

彼の自宅は国道から脇道に逸れて山を登ったてっぺんにあり、そこについたのは深夜0時回ってからだった。

『ここ上がるとうちに着くんだけど、ここから携帯の電波とか入らないからそのつもりで』

「えーこわぁ…何ここ。こんなとこ人住めるの?実は殴り殺して埋めて帰る気でしょww」

『やばい世界にいすぎるとどうしても発想がwwバイオレンスww』

などと笑いあい、さあ登るぞとした時に、車のヒューズが全部切れた。真っ暗になった。真っ暗だ。ああ、なんなの…。

 

まだ山に差し掛かっていないので親に連絡をしてここまで迎えに来てもらうよ、と彼がどこかに電話をして車に戻ってから

『やっとここまでたどり着いた。初めて話した夜からやっとここまで来た』

と言った。初めて話した夜…と復唱して、ああああああー!と悲鳴をあげた。初めて話した夜も電気がついたり消えたりした。死ぬのかもしれない。親だと言いながら誰か悪い仲間が来て散々回されてから殴られて殺されて山奥に捨てられてしまう、どうしよう!最低!触らないで!なんてやっていたら、親が来た。初めましての挨拶をして、家に連れて行って貰い、翌朝おきたら、大テーブルの出してある座敷に食事がずらーっと並んでいた。

 

"え、どういう事。あ、ああ、あれか。ここは本家で連休中に親せきが戻ってこられているのかも"

 

と思ったら、あの子が結婚すると聞いて嫁さんを見に来たんじゃ、とかなんとか、近所の人たちも総出で集まっており、あっちとこっちで目配せをして

"おい!どういう事なんだよ!友達連れて帰るって言ったんじゃねーのかよ!"

と思っている私の目配せを、何をどう受け取ったのかはしらないが、その場で

 

『籍は戻ったら入れようと思います。多分、あっちで10日後くらいに。式はしません。俺らはそういうの、望んでないんで。』

 

やめて……喘息もってないけど発作が出そう!!

わーパチパチ、おめでとうー!!

ギャーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

というわけで、もう断れない!もう断れない!どうしようどうしようどうしよう!

ちょっといいからここにハンコついて。はい。あ、待ってそれ…

 

ああああああー、ギャフン!という流れで13年前の5月15日、いつのまにか夫婦になってしまった。

 

「って事で、私、完全にはめられたの!」

肉を食べる。

『いいや?はめてないよwこれで良かったんだってw』

主人が言う。

「でもなんだかんだでねーちゃん、幸せそうじゃん?」

と圭吾が笑う。

 

「僕からいうのもなんですけど、ねーちゃん、にーちゃんの件ではずいぶんと苦しんだと思うんで…幸せにしてあげて下さい。にーちゃんもきっと笑ってるよwねーちゃんぽくてww

今日からじゃあ、新しいにーちゃんですね。僕の事もよろしくおねがいしますw」

 

『私、墓参りに行きたいのよ。あれから全く会えてないし。』

「墓参りに行かなくたって、彼はいつもお前の傍におるやろ。俺の夢にめっちゃ出てくるw」

思わず飲み物を噴き出す。

 

『あったことないのに!?なんで?亮介、なんていうの?』

「泣かしたら承知しない、泣かしたらすぐにでも俺が貰うって」

『私死ぬじゃん!』

「にーちゃん、やるなぁ~」

『いや、でもね、こうなるまでにおかしな事多かったのよ。ねぇ。例えばあの車の白いやつ…』

「おーおー、あれなー!あれ、なんやったんやろな?」

『その後、火あぶりって言葉使ったから、亮介だと思った…』

「いや、俺はその亮介君から、お前を守ってやってくれってしばらく夢で頼まれたからああしただけで…」

『やっぱりじゃん!やっぱりいたんだ!』

「にーちゃん、ねーちゃんがいないと生きてけないからw」

『生きてけないってもうとっくに死んでるけどね?w』

 

「違うよ。そういう意味じゃないwねーちゃんが生きてないとって事よ。自分が生きる場所がない」

 

『やめてー、それ、遠藤さんにも言われたーやめてー』

「でも不思議やと思わん?何のつながりもなかった人間が彼を介してここに集まってて、その話してるんやで?不思議やん、それこそ。いつか手をあわせてあげないと」

「ねーちゃんにはにーちゃんと、新しいにーちゃんがついてるから多分二人はうまくいく。にーちゃんはねーちゃんを殺さない。新にーちゃんも、ねーちゃんを奪われないようにw大切にw」

 

亮介はあの場で、お肉を食べながら、生前我慢してたお酒をのんで美味しそうに煙草を吸っててくれたんならいい。そしたら輪の中に入れた。本当はあなたと私が一緒になるべきが一番だったけれど、それももう叶わない事であれば、誰かに託す、それもありかもしれない。二回目の人生で。その先で会いましょう。愛する亮介。いつでも、傍に。

キミの話-第三章 vol,12

誘われたので断る理由もない、と、和食を食べに行った。寒い日の横断歩道の向こう側で背を丸めて、寒い寒いと言っている人がいる。革ジャンを着てた。

どうしてこうも、待ち合わせする人する人、パンクだのロックだの……私はクラシックが好き、と思って、あ、と思った。余程縁があるか、そうでないか。あの日の私は外から見るとフワフワしていたらしい。地に足のついていないような、フワフワとした印象があったと後に言われた。色々がどっちでも良かったからだろう。誘われたら断る理由もない、その単位でいつも動いた。

 

和食を食べに行き、私はてんぷらを食べるのに対し、まだ寒い季節にその店はそうめん定食なんて物があってそれを頼んでいるのをみて、そういえば亮介、そうめん好きだったな…と思い出して

『この寒い季節に…その恰好で…素麺とは…』

と呆れたら、素麺が一番ハズレがないんで、と言った。私が夏の日に

"亮介また素麺ゆでてんの?"

と言ったら

"わかってないなーみゆちゃんはw素麺ほど飽きない食材もないでしょー"

と笑った。私は飽きるよ。飽きたよ。別のもん食べたい。そう言って笑った夏の午後。

 

この人は不思議な人だな、と思った。ズルズルと素麺をすするのを見る。

「一口、いります?」

そういう事じゃない。

 

吞みに行きますか、と店を出るともうどの店も閉まっていて、ならうちに来ますか?と相手が誘う。またか。結局この流れで寝る。まただ。男というのはやれたらいい、それだけだ、そう思うと一気に退屈になった。

『やりたいんならそんな回りくどい言い方しないでもやりたいから部屋おいでよって言えばよくないの?』

「え!なに急にw」

『だから!その気ならそうだって言えばいいんじゃないの?って話よ。もうね、食事してお酒飲んで部屋いって寝る、で、朝になってハイさよならーって流れにも飽き飽きしてんの。煙草下さい!』

「えええーww全くそんな事考えてなかったけど、あれですね、ろくな奴と出会ってきてないってのはわかりましたw」

部屋に行く途中にお酒を買うのに、コンビニに寄った。お酒だけだと後が困るので家までに飲む珈琲や、その他ウーロン茶なんかも買った。相手が車に乗り込んだ時、手に持っていた飲み物を見て

『!』

「?」

『オレンジ!?』

「え、だめ?」

『その恰好で、オレンジジュース!?薬飲んでる?』

「はい?あぁ、たまに。眠れない日がある時にってこないだ医者で…」

『やめて。オレンジ、だめ!薬の効果、倍!』

「今日は呑みませんよ?酒飲むし…」

『オレンジ…その恰好で…オレンジとは…』

完全にトラウマだった。この人、死ぬのかもしれない、と思った。その前に恋愛関係に発展したらアウトだ。確実に夏の終わりには他界する。二度も同じ失態は犯せない。

 

部屋に行ってお酒を飲んでいたら見た目とは裏腹に案外、真面目で、仕事の話ばかりした。仕事しかないから仕事の話しかない、というくらいに働いていた。私も仕事しかないので今は仕方なく別の仕事をしているけれども、昔は専門職だったという話をして会社の名前を出すとビックリしていた。そうは見えない、と言いたい、わかります…その後がクズのような生活だったので…。

 

「何聞いても驚かないんでw話せるなら教えて下さい」

私はここに書いた全ての事を話した。愛する人がいなくなってしまった事、その親に責められてダメになった事、理由は私の背景が透明並びに虐待三昧であまり宜しくなかったから、その件で流産もした、何もなくなったから死のうと思って一年過ごした事、リハビリ程度に社会に復帰したけれど今もまだ少しだけ引きずってあの仕事をしている事、誰も信用していない事、男はいらない事、もう二度と恋愛なんかしない事……

 

話が終わったら、何故か大泣きしてた。

『付き合って下さい』

「え!話聞いてた!?!?」

『誰かがあなたを護らないでどうするんですか?(涙)』

「それ別にあなたじゃなくても良くない?面倒はごめんだって突き放すのがヒトでしょうよwだからって、何こいつサイテー友達やめるわwとか言わないし…」

『そういう事じゃないです。気になるなぁと思ってた人がそんな苦しい思いしてきたって事が辛いんです』

「あー…なんか…好いててくれたんだ…ありがとう…いやしかし、やめとけぇ?私みたいなの、ろくでもないよぉ?しかもあれだよ?今の仕事、途中で打ち切ると東京湾に簀巻きだからねー??厄介だよぉ?」

『俺、相手に話に行きます』

「え!!やめときなってww死ぬよ?いいの?ってか自分で選んだ人生なのに他人に迷惑かけるわけいかないでしょー?」

『他人じゃなかったらどうですか?』

「は??意味わかんない…」

『結婚を前提のお付き合いならどうですか?』

「正気!?!?」

『正気の、結構マジで』

「色々あまいw」

『わかってます。生き抜いてこられた方にこんな事いうの、バカみたいだけど放っとけません』

「あれじゃん!彼女いないから寂しいんじゃん?寂しがりやさんなの?たまに来てヨシヨシしようか?」

『俺はあなたよりも年下で頼りにならないかもしれませんが、その人の墓参りに一緒に行きたいです』

この言葉にはガツンと来た。そんな人は忘れて僕と、そんな事は忘れて、そんな事は忘れて…。全てが私の持ち物であるのにそれを忘れろと言った。人間なんて所詮は他人で全ての事は他人事である。あの時あの人にそこまで言わせたものは何だっただろう。

『とにかく、付き合って下さい』

「いや、展開が早すぎてwえっと、だから私、その人の事、好きなんです」

『それでもいいです。』

「考えさせて下さい。しかも私、2~3人彼氏います。セフレもいます」

『きって下さい。そいつら、全部』

「ええええー。ゆっくりいきましょうw」

『きって、俺のもんになって下さい』

「私そんな事いわれる価値ないですよ…?生きる価値ないって言われたのにw」

 

 

その夜、その人は私を抱かなかった。なかなかガッツのある人だと思った。でもその夜に変な夢を見て飛び起きた。ここは幽霊が出たりする部屋かと聞くといままでそういう事はないし、もしそうでも自分には解らない、と言った。

 

どんな夢だったのか聞かれたので

「上下茶色で、中にベストを着るようなタイプのスーツを着て、ハットを被ったおじいさん?かな…時計してた…腕。ハットさわる時に見えた…。その人が私に、ありゃどないもこないもならんけど頼むでって超訛ってた…で、なんか土間みたいな?畳が一段高くなってるような田舎の家で玄関に青いベビーカーがあったけど……めちゃ怖い、誰あれ…変な夢みたぁああ!呪われてるのかもー」

 

と言ったら、あ!という顔をして、古いトランクをゴソゴソして

 

『これじゃなかった!?その時計!』

と言われて私の方がビックリした。その時計だった。

 

「やだもぉおお~呪われてるよ絶対ー。帰りたいー帰るーサヨナラー出会わなかった事にしてぇー」

 

と言ったら

『俺、今日も仕事なんで部屋の鍵、渡しておきます。戻ってきて、まだここにいてくれたら嬉しいです。仕事も早めに切り上げて戻るつもりです。』

東京湾のバイトあるー。行きたくないけど飛ばしたら即死ー。もしくはまた売り飛ばされるー今度はもっとひどい場所にー」

と言ったらあっさりと

『じゃあとりあえずそれ行って戻ってきてください。そっちの相手とは俺、話つけるんで。ついでに教えておくと、その夢の人が話した言葉は岡山の言葉です。俺は岡山の出身です。じゃ、のちほど!行ってきます』

と言って自転車にまたがって猛スピードで出て行ってしまった。

 

しばらく戻らないらしいのでウトウトしていたら、今度は夢に亮介が出てきて、みゆちゃん、と私を膝枕して髪の毛を撫でていてくれた。優しい人の膝の上はどうしてこうも気持ちがいいんだろう、と思っていると、亮介はまた、みゆちゃん、と呼んで

 

大丈夫

 

と言った。あれから私はよく大丈夫、という言葉を人に使う。

大丈夫だから、大丈夫だからね、みゆちゃん。

 

苦しんだ彼と、苦しんだ私の、その先の「大丈夫」

ますます、生きろ、そんな風に響く朝の声。亮介はどんな時も私の傍にいた。

今もきっと。

キミの話-第三章 vol,11

夏も過ぎ、冬を越して春になった。そろそろ最後の仕事から半年になろうとしていた。いつのまにか30になってしまった。誰にも祝われないまま、30に。昼は派遣、夜は打ち込み、その他、家でのサクラのバイト。独り暮らしを始めてからは遊び友達もセフレいたし、なんとなく付き合う彼氏もきらした事はなかった。そもそも彼氏の定義ってなに?付き合ってほしいと言われるから、はいはい、と付き合っているようなもので、好きかどうかを聞かれると答えに困る。好き、なら、マサトの方が上だろう。愛している、なら、亮介だ。しかも皆、やる事は一緒。なんなの?人の事をわかったようなフリをして。なんだって言うの?退屈だけを持て余した。中身も何もない時間。

 

亮介はお得だった。一番、私らしい私を見られた。私もお得だった。亮介の全てを見られた。お茶漬けしかしらなければそれが一番の御馳走だけど、私はステーキを知ってしまっている。御馳走を知っている人間にお茶漬けを御馳走だと思え、こんな無理な話はない。何を与えられても、それ以上、がないのだから。働いている方がマシだった。眠り続けて亮介の夢を見るか、もしくは働くか。そのどちらかで私の日常は過ぎた。たまの時間に友達、セフレ、彼氏。

 

家でのサクラのバイトはログインのあった人から順に話しかける。いつぞやのメッセンジャーの夜みたいだ。私はその時に、マサトに恋焦がれ、亮介にそれをぶちまけた。同じ事をしているのに、気分が全く乗らなかった。違いは、それがお金になるか、ならないか。それからこの仕事からどうやって足を洗うか。

 

ログインが光る。こんばんわと話しかけたその時に、何故か家の電気が落ちた。相手が言う。「こんばんわ」

 

……!!部屋が真っ暗。

ノートだったから助かったが生憎ノートも使い込み過ぎて、充電池がそうも持たない。

 

『ごめんなさい。ちょっと待って貰えます?何故かブレーカーが落ちちゃって。』

ブレーカーがあった洗濯機の横まで歩いたら急についた。直った…。

 

『なんか…勝手に直りました。お待たせしてすみません』

「いえ、大丈夫です。電気の不具合ですか?」

『みたいですねwなんかよくわかりませんけど、急に消えてつきました。ここの部屋、新築だって聞いてたのに』

「今日寒いからかもしれませんね」

『電気と気温って関係あるんですか?w』

「知りませんけどw」

相手も今の場所に引越しをして間もなくて、不動産屋の用意した家電セットをリースしたらパソコンがついてきた事、何故かそのPCにこのサイトがインストールされていた事、だから暇つぶしで繋いでみました、と言った。

『暇なら彼女さんとデートにでも行かれればいいのに』

「彼女いないんですよw別れました」

『あぁ、そうなんですねー。それは申し訳ない質問を致しました…w今日はお仕事お休みだったんですか?』

「いえ、さきほど戻りました。久しぶりに早い時間に家に帰ってこれました。」

『そうなんですねー。お疲れ様ですー。サラリーマンさんですか?』

 

不慣れなタイピングなのか相手はとてもゆっくりと答え、話せば話すほど私の質問にも素直に返答する。このタイプは言わないでもよい事をここで言ってしまう。ここでは危険だ。何故ならログを取られている。何に悪用されるかわからない。相手はチンピラ崩れの粒ぞろいのドクズ集団。こうした、聞かれたから答える、ペラペラと、このタイプが一番に餌食になる。それがとても不安になった。

 

『あの。フリーメール持ってますか?』

「フリーメールと言いますと?」

『一瞬とれるアドレスの事です。個人情報を入れなくても数分使えるタイプの物もあります。検索して取得、その後、自分のアカウント欄の名前消して、そこに一瞬表示して貰えますか?』

「わかりました」

『待ってます』

また電気が消えた。変な日だった。相手がフリーメールを取得して、言った通りにアカウントに表示させた。普通なら言われたから、と、メールアドレスなんて馬鹿正直にアカウントに表示させない。やっぱり初めての人だ。扱い慣れていない。充電池が落ちる前に打ち返さないと。

 

コピーして自分のメーラーから打ち返す。私もあの時、何故あんな事をしたのかわからない。普段なら放っておくのに。

 

"あのサイトでなんでも答えるのは危険です。相手はログをとっています。初めの数分は無料ですがその後、課金が始まります。私はバイトであのサイトにいます。サクラです。ごめんね。読んだらアカウントを元に戻してください。返信はこちらに。"

 

しばらくして、アカウントが元に戻り、返事が来た。

"どうして教えてくれたのかはわかりませんが親切に教えてくれてありがとう。あまり慣れていないので助かりました。"

 

電気がついた。やっぱり温度が悪さをするのかもしれない。

 

この時に私は亮介の存在を忘れていた。電気をつけたり消したりしていたのは亮介だったのかもしれない。この異常事態で、何を思ったのか平常心を吹っ飛ばしてしまい、普段しないような親切心を出して近づく事になったのが、今の主人である。

 

"何か別の話しやすいツールをお持ちではないですか?PCがXPならwindowsメッセンジャーがついていると思うのですが"

"ああ、ありますね。アカウントをお教えすればいいですか?"

"そうですね。お願いできますか?"

 

とてもゆっくりで不慣れなタイピングの人の返事を待ちつつ、深夜中、話をした。タイピングの遅さに途中で風呂に入れたくらいだ。相手は私に興味を持った。私に彼氏はいる事はいたが、どの人もこれといって好きという感じでも愛しているという感じでもなかった。彼は周りにいないタイプの人で新鮮味はあったけれど、なぜこの人とわざわざ自分の個人のアカウントで話をしているんだろう、とも思ったのも事実である。

 

これが私たちの出会いだった。私が選んだのではない。あれはきっと亮介の仕業だった。何かしらその後も不思議な事が立て続けに起きた。亮介は私を放っておけなかったのだろう。そういう事が全て決められているとは思わないし、そんな事は偶然だと言われたらそれまでなのかもしれない。それでもやっぱり、そう思うような事が多々あって、思い返しても私はいつでも亮介に守られているなぁ、と感じる事も多い。

 

あの瞬間は本当に不思議だった。不思議な出来事だった。もう亮介の仕業以外には考えられない。

 

だから余計に、あなたの死を、私は正したい。まだまだまだまだ、私に話し足りない事があったはずだ。あなたは死にたくて死んだんじゃない。あなたは私を守って殺された。あなたの事を現実で守る事、それが私の死ぬまでにしなくてはいけない事のひとつになった。

 

あなたの様子がおかしくなった日。台風が来て、屋根の修理をしていると言った日。既にあなたに何かがあったのかもしれない。何か言いたそうな素振りだったのを覚えている。だとしたら第三者の存在は"アリ"だ。親から脅されていたのなら、相手は親なのでイライラがあったとしてもあんな風にはならない。様子がおかしかった。

時間の溝は多分そこにあったのだろう。時間がそこから、道がそこから逸れたはずだ。だから、その時間を持つ人間を寄こした。実際に何かがあった3日前。それらを私に忘れさせないように、主人を選んだ。

 

何故なら、それが主人の誕生日だからだ。そこには何かのメッセージがある。

 

 

 

その夜から主人はやたらと私を誘うようになった。

"よければ和食でも食べに行きませんか?"

"奢って頂けるんですか?"

"ええ。よければ明日でも"

 

今度は電気が消えなかった。スイッチを押しても何をしても電気が消えなくて、なんなのー、どうしちゃったのー、なんて言いながらつけっぱなしで眠ったら朝になって消えていた。スイッチはオンになったままだった。パチパチっとやったら、ちゃんとオンでついてオフで消えるようになったけれど。不思議だった。

キミの話-第三章 vol,10

「……で、お嬢ちゃんにそれを頼みたいんだけど。」

『え?あぁ、解りました。それだけですか?』

「そうだよー?なんでぇ?」

『いいえ、あの、もっと難しい仕事かと思って…』

「お嬢ちゃん手放すのは惜しいんだけどねぇ…。あんたみたいな子が実は一番こわいんだよ。頭もある、腕もある、命は惜しくない、久しぶりに根性ある女を見たなあと思ってさ。でもあんたあれだ。頭があるからw長く置くのはこっちも怖いんだよ。どこで何があるかわかんないからね。」

 

私が元々していた仕事を話した時に、いつかそれをさせようと思っていたらしい。自分達の直接の仕事ではないらしいが、関係のある人達の行っているネット関係の仕事らしい。裏家業は入り組んでいて簡単にしっぽを掴めないから、元を捕まえろ、だなんて難しい話だと思う。そもそも自分達もどこが元だなんて理解していないのかもしれない。股の股のそのまた股の…。今話している相手が元だったとしてもそれは全く不思議ではない話だ。腹の探り合い、騙しあい、絶対に人を信用しない世界。

 

『あの…。お体、大切に』

「ああ、お嬢ちゃんも。無駄に生きるな、無駄に死ぬな」

 

手っ取り早く都内に部屋を探した。寺田さんともサヨナラだ。とてもお世話になった。

不動産屋の男はとても嫌な男で、部屋を借りるなら保証人がいると言われ、保証してくれる人など誰もいないというと、今回は特別なくてもいい、その代わりたまに遊びにいってもいいのなら家賃も安くしてやると言った。安く見られていて面倒くさかったので黙らせるのに一度、寝てやった。その時の事をwebカメラで撮影しておいて不動産屋に投げ込んでやったら担当がすぐに変更になった。当然、会話でうまく誘導してそれも収めておいた。ざまーみろ。

『私以外にも保証人はいらないからその代わりにっていうの、やるのん?』

「数える程だよ?タイプの子にしかしない」

『じゃあタイプじゃなかったら?』

「部屋を貸さない」

自分の体を犠牲にして自分以外に悪い事を出来なくさせたのだから私は誰にも何も言われる筋合いはない。

 

横浜より指定された事務所に行ってみたら、本当にパソコンがずらりと並んでいて、私は何をすればよいのかを聞くと出会い系のサクラであった。カード購入タイプの物で相手と会えるところまで話を引き延ばす。一発言でポイントが減っていくので、簡単に説明すると20ポイントあったとすればお互いに10回ずつの発言でポイントはゼロ。次に新しいカードを相手が買わなければお目当ての女の子とは話せない、というルールだ。簡単そうに見えてこれが意外と難しい。何度か課金が繰り返されなければ意味がない。興味本位で買ってみた、暇つぶしに、そういう相手を本気にさせてなんぼの世界。どこまで相手の想像の中で踊れるか、が要になる。

 

なるほどー。世の中の悪にはピンからキリまでがあるわけですねー。寝技、心理、なんでもいらっしゃいよ。悪い思いはさせないわ♡ってか。とりあえず簀巻きは逃れられて良かった。

 

「ボーナスじゃないけども…誰か働いてくれる子、紹介してくれたら一人につき10万ね。出来高だからあれかぁ、ボーナスとは呼ばないか。で、あんたあれなの?パソコン使った事ある?キーボード打てる?」

『それなりには…』

「あっそ。まぁその内慣れるよ。ここの中の誰かの知り合いなんでしょ?」

『ええ、まぁ…そうみたいです』

「ふーん。まぁ頑張ってねー」

『了解しました』

さあああ!どんどんだましてこうぜー!とバイトに気合を入れさせる大声の、チンピラ。お金になるというのは恐ろしいものである。そこまでして金が欲しいか。真面目に働けよ、ドクズが。こういう時、素直に皆まで話してはいけない。誰さんからの紹介で、とか、以前何かをしていました、そういう事は隠すべきだ。地を這って生きると発言のタイミングやすべき事、いわないでもよい事、そうした物が瞬時に見抜けるようになる。

 

驚くべきことになんとその現場は24時間であった。こんな仕事が24時間!実際には派遣でバイトにいっていた方が自給自体は高いような現場である。でも相手は何時に話しかけてくるかわからない。その為に対応できる人数がいる。これまでの会話はログに残されているので、誰のものが回ってきてもその会話の流れをみて、私はひとりである、を演じるわけだが、実は何十人もが一人のフリをして相手に対応している。

 

キーボードのそばに飲み物を置いていた子はチンピラに倒されて

「あーあーあーあー、これ、ダメになっちゃったんじゃないのぉ?きみ弁償できるう?当分辞められないよねぇーこの仕事ー。これ、新機種で新しいタイプのだから高いやつだよー?払えないんなら体で払うー?どうするう?」

『私が代わりに体でお支払いしましょうか?その機種、型落ちですよ。アキバいけば安くで売ってます。途中までしか相手できない程度の金額ですが。どうですか?』

とピシャリと言ってやると、お前なんなんだよ!とものすごく威勢がよく吠え散らかしていた。いっとけよ、バカ。こっちは死ぬのも怖くなかった。こないだまで。

 

夜勤が出来るのであれば夜勤にして、昼は寝るか、派遣のバイトに回す事にした。完全にここを抜けるとしたら、どのタイミングだろう。それで一年は清算した事になる。あの世界は下になればなるほど、タチが悪い。普通の世界とは逆だ。初心を忘れずに歯を食いしばり上を目指す、その期間が一般社会の下っ端の努力であれば、あちらでは上にいけばいく程、それを求められる。下っ端ほどタチの悪いものはない。そのタチの悪さに長く煩わされてしまうと一般社会には戻れなくなる。ズブズブになるだろう。半年以内には、どうか。なんとか。

 

派遣会社に連絡すると担当が変わったそうで、この間の可愛い男の子は居なかった。何かあったのかを上に聞くと、自分には向かないと解ったそうで、さっさと辞めてしまったという話だった。誰かに話して、自分の気持ちに素直になる事がある。彼はきっとその時だったんだろう。そう思った。合わないと思う事にも限度があって、それが苦痛ならば今すぐ辞めるべきだ。どうだろうと人は生きていける。いい加減で終わっても、私のように命を取られる場に身を置いているわけではない。それならば思うように生きるべきだ。

 

「そうですか」

と私は笑った。飛び立つ鳥の羽ばたきを見たような気分になった。

 

食べたいと思った物、したいと思っていた事、そういう物を後回しにすると明日はどうなるかわからない。亮介はそうだった。私の為にお金を使わないんだと言って節約をし始めた。欲しいと言っていたCDも、私好みを先に買って自分好みは後でもいい、そう言って買わなかった。聞けばよかったし、買えばよかった。振り返ると、あれをさせてあげればよかった、これをさせてやればよかった、彼はきっと、あれでも充分だったと言ってくれるだろう。残された私は、どれだけしてやっても、きっと足りないと思うだろうし、今でも、それは足りない。命には、敵わない。何を目の前に差し出しても、してやりたかった側には満足なんて、ないのだ。

 

新しい部屋にはトランクルームから引っ張り出してきた亮介を沢山並べた。洗わなかった亮介のTシャツも引っ張り出して、毎日亮介を堪能した。いつまでも洗濯できなかった。私は引越したけれど、亮介は自分の匂いに気づいて帰ってくるかもしれない。私の傍にいつもいてくれるかもしれない。周りから見れば私は普通のお嬢さんだったように思う。彼氏がいないなら別れたか、彼氏募集中か、そんな感じに見えただろうと思う。まさか家でいなくなった亡霊と毎日、妄想の日々を過ごしているとは、誰も。

 

長い間ホームシックだったのは私の方だったのだろう。一年間、本当にピリピリとしていた。気の休まる場所がなかった。部屋の扉をあけると亮介の香りがして

『みゆちぁああああん♡おかえりー!会いたかったよー!』

「朝あったじゃんww寂しくなるの、早いw」

そう言って笑っていた頃が蘇る。可愛い笑顔。亮介の鼻をつまむ。ハムハムしてやる。こちょこちょしてやるとケタケタと笑う。

『ちょおおぉwもおぉぉおwみゆちゃんやめなさいw』

「満足した?大人バカにして」

『えええー何それぇwあしらわれたの?俺w』

「疲れてんのよーめちゃくちゃ忙しかったー!泊りになっちゃうと亮介あれじゃん?みゆちゃん戻ってこない…戻ってこないぃい!ってじっとしてらんないでしょ?w」

『わはははwあーねwさすがw』

亮介のいう「あーね」って返事。大好きだった。照れたような可愛い返事の仕方。

 

派遣のバイトで入ると、彼氏いるの?と聞かれたりして、いません、と答えながらも早く家に帰りたい、と言っていたので本当は彼氏がいるんじゃないか、と言われていた。彼氏だけど、彼氏じゃない。それはもう生きてはいないし、私には夜の仕事があった。深夜の打ち込みバイトは飛ばすと東京湾に簀巻きもあり得る。

 

なんで派遣なんですか?と派遣で働く人に尋ねると多くの答えが、日払いだからという返事と、好きな時に入れるから。それ以外は、気軽なバイトらしいバイトが見つからないから、という答え。気軽なバイトらしいバイトってなんだ、これもバイトじゃないか、そう思うも、わざわざ履歴書を持っていちから頭を下げて…というのが面倒だという事らしい。正社員になる訳じゃない、たかだかバイトなのに、そういう事だそうだ。

 

「いちいち履歴書用意しないでも毎日入れて日払いOKないいバイト、ありますよ?」

『なんですかそれは本当ですか!?紹介してください!』

 

ああ、これはおいしい。半年待たないでも、自分ひとり分をカバーする人数を放り込めばそれなりに貢献したという事になるのではないか。そう考えた。半年を待たなくても離脱する事は可能かもしれない。因みに何故これを堂々と書けるかというと当時、その現場は普通にバイト情報誌にも求人を載せていたからである。私がわざわざ紹介しないでも自分から応募してバイトにいっていた方も沢山いらっしゃるので解りつつやっていた人間も大勢いる事になる。

 

やっぱり集団性とはそうした物で、善悪の責任は自分にはない、となれば、その中で真面目にやる事をやって稼ぐだけ稼ぎ退く、こうした人間が多くそれが世の中だ。本当にタチが悪い。

 

昼はたまに派遣、夜は打ち込み、そうしていたら、その打ち込み現場が新しい部署を立ち上げた。そちらも出会い系ながら、きちんとデザイナーも入れたシンプルで美しい仕上がりの出会いを出会いと思わせないようなもっと手軽に楽しめるタイプの物だった。そちらは家のPCからもログインすればネット上で可能、との事で

『やって?』

「やらなきゃだめですか」

『うん、やって?』

という流れで始まってしまった。家でのバイト。