聴こえてくるのは、雨の音。

ある意味、避暑地(自分だけ)

生温いナマコ

物がなんであれ人類史上、初めてそれを食べようとした人を私は尊敬している。

 

例えばふぐ。あれは見た目が魚なので、比較的、手を出しやすい物の、そんな物をよく食おうと思ったな…だいぶ食う物に困ったんだろうか…と思えるものもあったりする。今となると『ふぐには毒がありますよ!』がわかるものの、わかるのはそれを食べて誰かが死んだからだ。この時にはきっと、まさかあんな物に毒があるなんて!派と、やたらめったら食うからそんな事に…派に分かれたに違いない。身内としてみたら葬儀の時は誰も食べないような物食べて死ぬなんて…と恥ずかしさも感じたかもしれない。大丈夫、その方は現代にとって偉業を成しています。立派!

 

ナマコは私にとってはその類になる。食べないわけではないが、自分から買ってまで食卓に出したい一品、とまではいかない。小料理屋で誰かと飲んでいて、私以外が頼みたまたまそこにある…そのような機会でしか口にしない。あれをよく食べてみようと思ったものだ…と感心する。

 

ナマコはうちの母が好きだった。私からすると

(触ると固くなるだと…!?もうアレですやん!なぞなぞに出されたりしたら自信を持って答えてめっちゃハズイわ!…ってなる、まさにそれですやん。)

であり、わざわざ断りを入れるまでもなくうちの母も狂人そのものであったので、私の中では完全にそれは色狂いの食べ物である。ナマコには何の罪もない。好きな人にもなんの罪もない。悪いのは、この、私の感性とそれにまつわる記憶だ。なんせ彼女はいつの頃からか、人生に疲れ、破れ、狂人と化した。あのような変貌を遂げるのは環境がそうさせたのかもしれない…と思う反面、そんな中でもまだマシな方に育っている私もいるので、あの人は元々から母親になってはいけないタイプの人間であり、よい母親だった頃は結構無理を、しなくてもよい我慢を、させていたのかもしれないなと申し訳ない気分にもなる。

 

 世の中にはいつまでも酷かった身内を許せない人がいる。あいつらさえもっとしっかりしてくれていれば自分はこんな人間にはならなかった…と傷を抱える人もいる。私自身はもうネタ程度にしか考えていない。許せない、と考える程、心の距離がそばにないからだ。いつまでも引きずる事はどこかで自分が離れたくないと思っている証拠でもあり、私にはそのような執着心があまりない。過ぎた事、終わった事、できたらなかった事になってもいい、実の親に抱く感情がこれでは寂しいけれどとにかくそんな感覚だ。

 

父と共に過ごしている頃は何かと自分の用事を入れては家の事を父に預け、私たちの事も気にかけながらそれなりに、普通の母よりも少し派手めながらあれはあれで一生懸命日々をこなそうとしていたように思う。それは自分が母親になってみて初めてわかる感情で、母と言えども人間だ。それまでの自由もあったのに結婚して子供を持つと家に閉じ込められて気分的にまいってしまう。私も度々、結婚前や子供を授かる前、自分がどのように動いて生活していたか、を振り返る物の、自分でさえそれをなかった事にしようとしているのか思い出せない事も多々あり、驚く。

 

その仕事を与えられればそこに真剣に向き合おうとして当初感じていた、日々の、こんな予定ではなかった…なんていう新米ママ時代に抱く思いはいつのまにか、初めからこうでした、と抗う事も忘れてしまった。人は環境に順応できる。善くも、悪くも。

 

しかし、彼女は、根っからの女だった。狂人と化したのは離婚した後であり、あの人はとても、子どもの自分から見ても絶世の美女と呼べるほどの美しさを持った人間であった。離婚をしてコブツキでもデートしたい人間は次から次と現れ、何故か毎度、板前や料理人とねんごろになり、新しい彼氏、と紹介される度に

『またか!また料理人か!なんのマニア!』

と思っていたのだが、昼間に起きだしてけだるそうにメイクをする母に聞いた事がある。また今回も会社員ではないんだね、と。そうすると母は言った。

 

「会社員なんてねー。安月給で、ご飯食べに行くっていっても大したところには連れていってくれない、女に夢見させられない男が多いのよ~。あなたみたいに綺麗で美しい人はさぞや色んな物を食べさせてきて貰ったはずだから、こういうところもたまにはいいだろうってラーメン屋とか?定食屋とか?庶民的な場所に連れてってくれるんだけど、そんなところからスタートする恋なんて、質が落ちる一方なのよね。時間がたてば気持ちの鮮度も落ちるんだから、あがる気配なんて一向に見えてきやしない。それなら毎日、美味しい物を目の前に広げてくれる人の方がいいわ~。私はあなたのお父さんで懲りたから、もう家の事なんか一切したくないし、メイドが雇えるくらいの人にしか興味ないの」

 

目を細めアイラインをひく姿が鏡越しでもドキリとする程、美しい姿がそう嘆く。お店にはあまり連れて行ってはくれなかったが、あんた達にだって、と色々な種類のお料理を持ち帰り、食べさせて頂いた。和食に中華、フレンチ、イタリアン…。

 

それを美味しい美味しいと食べる娘の隣で煙草をふかしながら、お酒を片手にナマコをつるりとすすっているのが母だった。何故それなのかは尋ねた事はなかったが、彼女はいつも飲む時にはそれを隣に置いていた。一口頂いてよいか、と箸をつけると予想以上に酸っぱい味付けで……なんだこれ…食感もへんな感じ…周りは包まれている感じなのに身はコリコリして…子供には全くその美味しさがわからなかった。

 

なんだかんだ言いながら、庶民のくいもん好んでんじゃねーかよ!と今になって思うが、そこのギャップだったんだろう、とも思う。男と別れたからって全く寂しくなんかないわ!と自由を満喫し男に舐められないように虚栄張る自分と、本当はこんなんじゃない、心からの家庭的な安らぎを求めています…のそのギャップに彼女はどんどん墜落し始めた。美しかった彼女は美しいまま、狂人に変貌していった。いらぬ進化論。あの人は昔から可愛くて、蝶よ花よと周りから大切にされたので、大切にされる事が当たり前で父のように離婚という自分を捨てるだと!な決断を下すような男は世の中で最低の下の下のレベルとして認定された。父が持つ気配と重なるものが少しでも見えるとゲームオーバー、彼女はそんな風に恋をした。

 

父は父で男前である。若い頃の写真を見つけてこれ誰!?と驚いたほど、なかなかいい線いってるイケメンで、それこそこちらもモテてモテて仕方がなかったそうだが、遊び相手の一人である母のお腹に突然私が宿ってしまい、その他喜び組とはサヨナラに至ったらしい。イケメンだがろくでなし。美しいが狂人。どっちもどっちだ。まず遊びなら避妊しろ。お互いに。破れかぶれか!

 

母がモテたのにはもうひとつ理由がある。あの顔、そしてあのスタイル、家族の前では一度もおならをした事もなく、どこに内臓があるんだろう…と思うようなウエストの細さ、全くの無臭でつけた香水は最初から最後まで何かと混じりあう事もなく当然のように香る。それに加えて、お勉強がよく出来た。狂人ぶりを発揮しはじめた頃からの母しかよくは知らないが、元々は才女と呼ばれる頭の良さを兼ね備えていたらしい。個人的にはだいじな物を見失う程度の脳みそだった、としか感じてはいないが、それでも本棚には難しい本が並んでいたし、それもまぁきっと嘘ではなかったんだろう。

 

今話題の沢尻エリカちゃんが主演で出たヘルタースケルターのパッケージをみると私は何故かいつも母を思い出す。

f:id:tsubame71:20191122180246j:plain

ヘルタースケルターのりりこちゃんは色々をごっそり触っていたけれど、あの人は生まれながらに美しかった。話の内容がそうなだけでエリカちゃんも触っているわけではないだろう。美貌の裏には苦悩もある。毒々しさもよく似ている。この映画をみた時に、私はそっちにばかり感情が持っていかれてあまり内容をよく覚えていないw

 

とにかく彼女は日に日にノンストップで、狂人と化していった。部屋にはファンに配られたのだという再販しても追い付かない半裸のカレンダーがかかっていた。なんとも思わなかった。美しいんだからいいんじゃないの?でも、何か…何とも言えない歪のような音もどこかで不協和音として胸に響いていた。そもそもファンってなんなの?どこの?仕事の?

 

ある日に化粧品やらの一切を詰めているカラーボックスに謎のプラ(だったような気がする)のボトルを発見する。「シアン化カリウム」と書いてあった。メモって薬局に行き、どう尋ねればよいのか解らなかったので

『すいません。シアン化カリウムありますか?』

と尋ねたらギョッとした顔をされ、誰かに買って来いと言われたのか?と根掘り葉掘り聞かれた。間違えたフリをして、別の物が欲しかったのかもしれないけど名前が難しくて思い出せない、聞いたのになー…とごまかして最終的に

「それは青酸カリだからね」の言葉にまでたどり着く。あいつは死ぬつもりなのか、それとも私を殺すつもりなのか、と、ドキドキして眠れない日々を数日過ごした。もはや敵なのか味方なのかそれも釈然としないある日に、あの人は忽然と姿を消した。

 

その前から不安だったので言うほど驚きもしなかったが、そこからの生活は大変な物で、時が過ぎて、突如私の前に悪夢が押し寄せる。ギラギラしていた。もう、キラキラを通り越し、ギラギラしていた。あれはなんだ?毛皮か?いや、もう豹に違いない。出てはいけない動物が檻を抜け出し私の目の前にいる。隣にいるのはなんだ。ゴリラか?ここは動物園かなんかか…。

 

「久しぶりね。お父さん、つれて帰ったから。今日からみんなで仲良くやりましょう」

煙草の煙を口の端から優雅に吐き出し、美しい爪をした豹はとうとう人の姿を捨てた。絶対悪い薬でもしていたに違いない。ハラハラするような美しさを兼ね備えた優雅なビッチ。この上ないアバズレの親玉のような女豹。連れ戻ったゴリラはバリバリのいかつさで、前に組んだ指に、血がついていた。

 

「さっき兄さんのところに顔を出しに行ったら俺は絶対反対だって喫茶店で喚きちらすんだものwこの人、怒っちゃって。だからあそこはもう、うちとは関係ないから。よろしくぅ♡」

その血はおじさんの血だった。ゴリラはもっと賢いんだと思っていた。人崩れのゴリラはゴリラの内ではなく、ただの出来損ないなのかもしれない。

 

私はおじさんの家を一人で何度か尋ねたけれど、おじさんの奥さんであるおばさんは私を門前払いした。かかわりあいたくない、と言われた。傷ついた。本当の親が人の姿を捨て、動物になった以上に傷ついた。お前も人ではない、そう言われた気がした。私がどう生きようが、どう考えようが、私自身の事よりもそれらは"全て"の総体として取り上げられる。その時から私は全てを一緒に考える、十把一絡げ的思考はよそうと思った。自分がされて嫌だった事は人にはしない。それぞれに考えがある。それぞれが生きている。その裏にある気持ちくらいは、変えられなくても汲んでやってバチは当たらないだろう、そう思っている。

 

押し付けられた家族生活は様々を経て、私が外に放り出される形で終結した。その後も何度か連絡があったがそれはそれは人のものとは思えぬ横行が繰り広げられ、もう二度と、金輪際あうつもりはない!よく聞いておけ、つぎあう時はお前の葬式だ!さっさと死んでくれこの野郎、と電話口で言葉を投げ、叩き切ったのが最後となる。

産んでくれたことには感謝をしている。私が出来てしまった事で自分の自由を奪われてしまった事も、次に上手に踏み出せなくなってしまった事も、申し訳ないとも思っている。しかしそれと、その先とは、話が別だ。

 

人はきっと好奇心か、恐れを知らないバカなのか、はたまた本気の狂人か。この三つに分けられて、それが上手くいけば勇気、失敗すれば怖い物知らずのバカ、に分けられると思う。狂人は最初の二つがうまく統合されなかっただけだろう。

 

ただそれがわかってくるには時間が必要で、これら選択は何れも過程に過ぎず、結果は常にその先になる。大人になると守る物が出来る。増える。一人なら好き勝手に出来た事も、自分以上に大切な何かが出来た時、これではいけない、と保守的になる。誰からも嫌われぬよう波風を立てぬようはみ出さぬように生きると決めれば、とある側面では"大人"であり、決めたが故に生じる面白味のなさは結局、何も考えず無邪気だった頃の素直さで事に挑めずにいるそのギャップで、それらを包み込むのは全て時間であり、時だとも思う。ギャップ、その狭間、境目、それらはいつでも陥る事が可能な場所だ。

 

初めて何かを食べた人。

なかなかロシアンルーレットの一か八かがあるけれど、それで命を落としても納得した人生がそこにあるのなら誰にも笑う事なんて出来ない。今となれば感謝だってされる。母は生き抜こうと努力した結果、狂人と化した。私は当時その努力を包んで考えてはあげられなかったが、それはそれでひとつの女の人生として出来上がっていると思う。私以外の誰かにはその存在をとても有難がられているかもしれない。私にはあまりよい思い出とはいえないが、母は母なりに立派であろうと思い転落をした、その勇気と努力だけは買ってやりたいと思う。

 

若い頃、どうしてこうなったのか、何が悪かったのか、明け方に訪れる悪夢に眠れず膝を抱えて丸くなり、よく泣いた。テーブルの上にはぬるくなったナマコがそのまんま放り出され、キッチンにあるテーブルセットの引き出されたままの椅子の背もたれには派手な下着がかかったままで、いい子でいれば愛されるだなんて幻想だ、と残りをシンクにぶちまけた。

 

私は誰かの母になった。それでも好奇心と勇気を持って、守る物はきちんと守り、許される範囲の自由を捨てず、何も否定もせず、だからと言って全てに縦に首をふるような真似はせず、私は私で急にひとりでこの世に生まれたような顔をして生きていこうと思う。

 

初めてそれを食べた人の勇気を尊敬するが、私はナマコは食べない。