聴こえてくるのは、雨の音。

ある意味、避暑地(自分だけ)

不登校

娘の事で悩んでいる。三女は悩むに及ばない。彼女とは共に生きるだけだ。

問題は長女であった。見事に夫婦で頭を抱えている。

 

学校へ行ったり行かずで先週などは1日しか登校しなかった。深夜に起きて昼は寝ている。お風呂にも入らない。発達障害を患う子にとって必要性を感じない事は後回しになりやすく、そうこうしていると"入らないでも死なないではないか"と脳が判断し学習してしまうらしい。部屋の扉をあけると揚げ物屋に面した路地裏のようなにおいがし、ねっとりした頭をしたまんま、寝転んで過ごしていたのか顔は浮腫んで瞼はパツパツ、たまにこちらの態度を伺うように部屋から現れ、あれが欲しいこれが欲しいとのたまう。

 

最初のうちこそ、何でもいいから何か会話を…そう思って話しかけているのだろうと悠長に構えていたがこちらが小言を言わないので問題がないと学習してしまったのか、それを繰り返すようになった。こちらの状態に怯える状態であるのなら言われなくてもすべき事をしろよ、順序が違うだろうが!という言葉が喉元まで出かかり、それを引っ込める。完全に腫物である。

 

不登校のお子さんを持つ親御さんは責任は自分にあるのでは、と悩まれるそうだ。勿論、私や主人にも責任がないわけではない。でも私の感じる責任は他の親御さんとは少し違う気がする。行かなくても良い、という時間を与えてしまった。行かなくても良いという判断には様々な理由があったのだが現実にその機会を与えたのは確かだ。それは「そんなに辛いなら」が枕詞につくのであって、今は正直、辛くもないのに甘えんな、である。……のだが。発達の障害がある子に健常児と同じようにしろ、というのも酷である。

 

何故いかないのか、何か行きたくない原因があるのか、を尋ねると平気な顔をして別に、と言う。集団生活が苦手ってのと行かなくても別にいいかなーって、との言葉が返ってくる。そうですか、と納得した上でひとつ、とても気になっている事があった。夜な夜な、彼女の部屋から聞こえてくる話声である。(怪談的流れではないすまん)それはもう私たちに話しかけてくる時のような何を話しているのかサッパリ聞き取れないボソボソとしたような物ではなく、ハッキリ快活、腹から出る笑い声も深夜の隣室から響いてくる。明日は学校もあるというのに深夜中、一体、誰と話をしているのだ。そして案の定、次の日中も起きてこなかった。

 

翌夜中にリビングであった際に誰と話しているのかを聞くと二つ前の学校の同級生とLINEで繋がって盛り上がっているという。私もよく知っている子であった。相手の子は学校は?と聞くと、その子も学校へ行っていないんだ、という。その子のご両親は離婚なさり彼女を父親の下に置き、お母様が家を出て行かれたという事は私も存じ上げている。その子は決して悪い子ではない。むしろ大変に良い子であると思う。ただ、一度お会いした時の印象でお父様が自分の選択した事で子を傷つけてしまったので自分からは何も言えないと匂わせるような部分が大いにあり、強く出られないといった感じであった。異性だから思春期の女の子の気持ちは扱いづらい、という部分もある事だろう。

 

「友達同士なら、明日早いから寝るね、そっか、頑張ってね、の言葉も必要だよ?明日だりぃね、さぼっちゃおっかはたまの事だから許されるんであり…」と話し始めるとこちらをキッと睨みつけ、小言はいらねーんだよクソババア的態度で「はぁーあ」と大きなため息。ここで私の堪忍袋の緒が切れた。

 

現実をまともに歩めない、自分の力だけで生きられない、ましてあなた達は義務教育中である、親の脛をかじってなんの責任もとれない人間が好き勝手して人の話にため息をつくとは何事だ、となった。親や先生、周りの人間に散々迷惑をかけ、すべき事もせず口を開けばあれが欲しいこれが欲しい、要求が通らなかったらため息をつく、テレビを見てはこいつニートなんだって~クソだなwなんてあんた散々笑ってるけど、それが今とこの先のお前なんだよしっかりしろや!とぼろくそに罵る私w

理解をしたいから話してほしいと言っているのに、別にだとかなんだとか!察しろったって察する事なんかできない、ママはエスパーじゃない、助けようにも助ける術が見当たらない、だから解った、もうこの距離を何とかした方がいい、家から離れなさい、とまで言った。彼女の将来になんの責任もないのならいいのだ。学校なんか行かないでもよくね?つまんねーしな、で済む。そうではないのである。我が家にはそれ以上に苦労するであろう三女の存在がある。このまま長女がいい加減に生きてしまい、奇跡的に三女が就職なんか出来て家庭なんか持てて…なんていう夢のような話があった場合、ちょっと金貸してよ、なんて三女の前に登場されるとたまったもんではないんである。

 

少し前に学校なんか行かなくたって、と坊やがyoutubeでうたった事があった。坊やは坊やで、坊や的正しさの主張を繰り広げたが私はそれが正しいとは思わなかった。確かに何をしても人は生きていける。そこはよい。問題は、坊やはその先を知らない、という事に尽きる。誰にだってこの先なんかは判らない。だから人生は面白い。が、判らない事に対し現在(いま)を固定した考えで話をするのは矛盾していると感じる。だって、判らないんだもん。そうするとなんの主張も出来なくなってしまうが、例えば、義務であり行くべきだとは思うが自分はその必要性を感じないので通っていない、でも出来る限りはすべき事をするのが正しいのであって巻き返しには相当な努力を必要とするし自分にはその覚悟も出来ている、幾つになってもそれぞれに仕事という物が存在するので今はその練習だと思って通える人は通った方がいいのかもしれない、という僕はこうだが必ずしもこれが正しいというわけではない、が、そう生きている、の主張であれば私は頷いたのだが。

 

そして私はある言葉を勢いで投げてしまう。

「あの子は悪い子ではない。ただ我が家とは少しケースが違う。傷の舐めあいばかりで成長がないのであれば付き合いを考えなさい」と。

 

自分で言って、ハッとした。私はその言葉を言われる側の人間であった。

あの子は可哀想だけど環境が悪いから今後付き合うなと母に言われた、と、友の口から聞かされる側の人間であった。なんも知らねぇくせにあんたのママ酷い性格だねwなんて悔しかったし悲しかった事もある。あの頃の私はまだまだ子供で、自分が選んだ環境でもないのにそこを歩まされていて、こんな風に言われるのもだいたいからして親が悪い!こんな環境与えやがって!と感じていた事もあった。どいつもこいつも嫌いだったw

 

が、自分の口からその言葉が出た時にそうではない、という事に気づき、目から鱗すぎて寒気がした。

 

老若男女、若さや老いに限らず個々に環境の中の自由度が違うのだ。そして誰もがすべき事をする中で護っていきたい者や物の幸せを願っていて、大切な者がいますべき事をしている時の足手まといになってしまうものは排除する以外方法がなかったというだけなのだ。

 

あの子やあの子やあの子の母ちゃん、いい母ちゃんだったんだな…と感じた。環境のせいにして劣等感にも似た感覚を抱いた事を恥ずかしく思った。私には口うるさく言ってくる者もいなかったし割と自由だったのでいま思うとそれは当然のことである。まぁ、中には、環境の違いから来る差別的嫌悪を抱いて、という方もいたのかもしれない。時代が時代で離婚するなんて事はまだまだ珍しく、いまほどもよくある事とは受け入れられていない時代の事だから。

 

私が距離を置けといった言葉に彼女は反発、私は私で、もう私は腹を括った、そっちがそうなら親の金で使っているネット環境も何もかも自分で用意してやんなさい、あなただけ繋がせないようにする事も可能だ、やりたいのなら自分のお金でどうぞ、と言い放つと泣きだした。慰めなかった。

 

先日彼女のボソッとした話の中にこんな話があった。

引越してから通い始めた学校は進学を検討している子が大半、一応は学区で決まっている中学も存在するために学校説明会があるという。プリントを配られた時、クラスの子が「誰がこんな中学行くかよ」と笑っていたらしい。その話をして聞かせたという事は中途入学であるとしても何も決めず、何も頑張らず、傍の中学校に行く事が普通、だから特別に何かをするなんて事は考えなくても良かったしそういう物だと感じていた彼女にとっては現実を突き付けられた感があったからではないか、と。

 

こちらに来てすぐに出来た友達とはタピオカ屋に行くといって出かけていき、中学受験を失敗したらその子、引越すんだって、と語ったくらいにわが子の受験に力をいれ、その為にわざわざ学区への越境をなさる方も多い場所である。平気そうに話してはいたが

「同じ歳なのにやりたい事が明確すぎて、ちょっとなんていうか…生きる世界が違うのかもって思った」と言った。

 

だからこその傷の舐めあいが展開できる友達と、なのであろうが、それとこれとは話が別である。すべき事をした上で、こちらの生活はどうだ、周りについていけない、と話すのならわかる。翌日も頑張るために打ち明けあう時間を持つのもわかる。が、何もしない状態で自由最高、明日なんかこなきゃいい、学校なんてなんであるのか不思議、みんなよく平気で通うよね、学校なんてたまにでよくない?なんて笑いあってないですべき事をまずしてよ、自分に必要あるかないかなんて義務教育課程であなたが決める事ではないわ、いじめられてるとか居場所がないとかならわかるよ?でも出席すると友達と遊びに行ったりして、そこにどうしても出られない理由があるわけでもあるまいし、行かなくても生きてこられたしいいっしょ、なんて甘さでいられるとこっちも困るわけですよ、こちらはあなたに対し責任があるわけです。。

 

ラッセルの五分前世界創造仮説について東大教授であった野矢先生の考察では、過去の可能性は未来の可能性であると仰っていて、それを感じられるのは今という時間だけである事、そしてその現在(いま)は新しい現在(いま)を作り上げ、次々に飛び移っていく時間の中で過去をみる事は未来をみるという事にも通ずる、と解釈なさったのであるがそれには心底大納得で、過去にこれだけの自堕落をみせた者は未来でもその可能性があるという事(言わば性分)、義務教育の内はまだ親の脛をかじっていても放り出されず、何物とも向き合わずに生きていけるが、実は人生は「すべき事」の連続であり、例えば結婚して子供が出来てその子がオッパイを求めた時に『ええ~面倒くさい~眠いし~』などと言っていたら子供は死んでしまうし、やりたくないからしない、は主婦である誰もが口にしたい言葉であるが自分以外は誰もしないからせねばならぬ、それは主婦だからうまれてしまう逃れられない仕事である、と、この当たり前の行動の訓練の日々がルーチンである学校生活であって、必要が出てきてから掃除するわ、なんて言っていたらたちまち床は見えなくるし夫婦間の不和が起こる事請け合い!どうか親の心配にもたまには…と思うばかりである。

 

自分はこうである、ああである、は言い訳にしかならず、こうであるなら何に気を付けるべきか、気を配るべきか、までを判断していかないと義務教育とは違い、だりぃから行かねぇなんて事をしていると仕事の現場はクビになる、行きたくても体の具合で出社できないだけでもクビになる。こっちの気も知らねぇで!なんて文句いったところでお前が悪いとなる。会社というのはそうしたものだ。事情は理解されてもなんの生産性もない人間を置いておくほど社会は甘くない。そうしている内に自己解釈で痛みはすり替えられ、悪いのは先方!どうせ私なんて…と自己得点の低い人間になり…。だいたいそんな時、自分の選択なんてよそに置かれているんである。自分にも非があったかも、と考えられる人間は被害者ぶる必要はないので常に安定の自尊心であり、なんら影響がでない物である。(※扶養される年代に大人からもたらされる環境の善し悪しによる自己肯定の低さは除く)

 

なんにせよ毎日同じように繰り返す訓練の時というのは必要で、特に脳の判断が学習能力と直結している子にはフリースクールでもなんでも通わせなければだめだなと感じている。そこがうまくいかないのであれば投薬療法でもなんでもして、しっかり歩ませる事が今の私のすべき事だと思う。

 

おかしいなぁ…まだ理解のある方でよそと比べると随分と緩い家庭だと思っていたのにああした思考回路や能力の子には、それをよしとしている、と映ってしまうんだなぁ。自分の子だとはいえ、正直非常に厄介である。実際の能力と脳内がイコールにならない部分が発達の遅れがみられるという事であり病なんだけど…実際の身体の成長よりも知能が低くて追い付かないのならまだ可愛げもあるというもの…その逆は非常に厄介で、繰り出す言葉や態度は大人、しかしやる事なす事みな子供!…逆バージョンのコナンなんて需要ねぇだろクソかよ!と心の中で思っている。が、そんな事を想い続けると私も病むので今日は文句ばかり言う彼女を連れ出し、雰囲気でも変えてと二人で食事、彼女から見ると私がバカに見えるらしく「過去にどんな大変だったとかこんな事をしたとかそんなもんに縋って生きてるババアって正直きもいんだよ」などとも言われつつww

(正直こんな言葉は苦労知らずからしか聞けないので貴重である。羨ましい。それらの苦労が人を作り上げるという事を、彼女はまだ、知らない。)

 

口が達者でいいね~なんて。これぞまさに思春期真っ盛り。しかし私との違いは、合わなからと家を出たきり早27年、自由には責任が伴い激しい苦労もしたんだから文句があるならあなたもそうなさい~♡その代わりにその苦労を選ぶのは誰でもない、あなただわ、と聞かせて、何をどう罵られようが明日は学校へ行く時間に起きられるように連れ出したんだし、私は私のすべき事をしているのでいいのだ、とも思う。

厄介がって殺してしまう側の気持ちもわかるし、どうして理解してくれないのだ酷い親だという側の気持ちもわかる。何が正解かなんてわからないけど、あなたが今後苦しみの少ない、困らない将来を歩んでくれれば、それが私の幸せであるには違いないのです。